春の終わりを待って  兆し 7




「どうして、ノアがそうだって思うんだ……」
「この辺を歩いてたおばちゃん連中がぺらぺら喋ってくれたからだよ。可愛い男の子が誘拐されそうになったって。ハーフで名前まで可愛い、ノアって言うんだって」
 お喋りな人はどこにでもいる。そしてこの近所にも何人もいて、彼女たちはノアだけでなく葵の出自もその軽い口で誰にでも教えていた。
 両親が生みの親ではないことも、葵を産んだ母親がどんな人であったのかも、近所の人々は知っている。
 無遠慮に、日々の些細な話題の一つとして消費されている。
 生まれた時からそうだった。だから半ば諦めていた。
 そういうものなのだと、冷めた思いで流していた。a
 けれどノアが誘拐されそうだったなんて、そんな傷口を開いてトラウマを刺激するかも知れない話題を、こんな得体の知れない男にまで喋っている彼女たちに怒りが込み上げてくる。
「うわ、おまえこいつとばっかり電話してんのな。ホモか?こいつにも話聞こう」
「止めろ!」
 失礼なことを言いながら、男はまるで我が物のように葵のスマートフォンを操作する。
 ノアに電話をかけているのだろう。
「止めろって言ってるだろ!」
 スマートフォンを取り返そうと男に手を伸ばす。
 しかし身長差があり、体格も二回り近く異なる男相手では、スマートフォンを掴むことすら出来ない。
「あ、もしもし、ノア君?今、君のお友達からスマホを借りてて」
 馴れ馴れしい喋り方にかっと血が上る。
 こんな男とノアを接触させたくない。何を言われるか分かったものではない。
 ましてあの誘拐を知っているのだ、下手にノアを刺激してまたおかしな事態になればきっととんでもない悲劇になるはずだ。
(だってこいつは、ノアが起こしたおかしな現象を探りに来てる!)
 こんな男が面白がって触れて良いものではない。
 もし万が一、ノアに奇妙な力があると勘付いたら。その時ノアはどうするのか、考えたくもない。
「返せ!」
 力尽くでなんとか男からスマートフォンを奪い返そうとすると、男は舌打ちをして葵の頬を殴りつけた。
「いっ!」
 熱いものを頬に叩き付けられたようだった。地面に倒れ込みそうになったが、かろうじて踏み留まる。
 とろりとしたものが鼻から流れ落ちて、手の甲で拭う。
 ノアに傷付けられた唇の上に、真っ赤な色が上書きされる。鼻血が出たと気が付いて、遅れてずきりずきりとした痛みが苛んでくる。
「いつかもこうやって殴られたんだっけ?」
 男は揶揄しながら葵を見下した。
「思い出した?」
 ノアを誘拐しようとした男は、葵の顔を殴った。それは近所の人々たちも、翌日腫れ上がった頬を見て察したのだろう。
 誰かはそんなことまでも男に語ったのだ。
 男か、それとも噂話をした誰かに対してなのか、あるいは両方か。血ではなく怒りで視界が染まりそうだった。
「くそっ、たれ!」
 そんな汚い言葉はノアでもあるまいし、日常では使わない。けれど無意識に叫んでいた。
 男は「は?はあ?」と電話で何か言っている。
 完全に葵から注意を逸らしていた。その隙に、と男に殴りかかる。やられた分だけは確実にやり返すようにと全力で挑みかかった。
 にも関わらず、男は葵が殴ろうとしていることに気が付いたらしく、するりと身体を避ける。
 口元に微かに拳が接触する程度にしかならなかった。軽く擦った感触しかなく、自分の無力さに歯を食いしばる。
 もう一度、と意を決した時には男が目を見開いた。
「んぐっ!んぅ」
 男は口元を押さえてはくぐもった声を漏らす。それまでにやにやと嫌な笑みを浮かべていたのに、一転驚愕の表情でスマートフォンを落とした。
「……なに?」
 何が起こったのか分からない。
 男は口元を両手で押さえたまま身体をくねらせている。何かが口元に張り付いているのか、それとも呼吸が出来なくなっているのか。
「何が、起こってる?どうして……?」
 この男は何故苦しんでいるのか。
 異常事態が起こっている。だがこれまでとは違い、ここにノアはいない。
 ノアが声だけで何かしたというのか。
 男は悶えながら歩き出した。ふらついた足取りは泥酔しているようにも見えるけれど、その瞳には色濃い恐怖と混乱が滲んでいる。
 怒鳴られ、殴られた怒りも抜け落ち、葵はおそるおそる男の肩を叩いた。
 正気に戻さなければと思ったのだが、男は反応しない。
 身の内にある何かに抵抗するのに精一杯になっている。藻掻き苦しんでいる。
 そうとしか感じられない有様に、ぞっとした。
『……!ぁ……!』
 微かに声が聞こえて、葵は我に返っては自分のスマートフォンを拾い上げる。
「ノア!?」
『無事か!?』
 珍しく焦っているノアの声が聞こえてきて、身体中から力が抜けた。
「大丈夫、一発殴られただけ」
『無事じゃないだろう!痛みは?』
「鼻血が出たけど、そんなに痛くない。あの時よりずっとまし」
『身体が育ったからだ。あの男はどうした?』
「分からない。突然苦しみ始めて、今はふらふらしてる。ノア、あいつに何をしたの」
『俺は何もしてない』
「嘘だ、だってあの人…絶対おかしい……なんだか息が出来ないのか、口の中が苦しいのか」
 こうしている間も警戒して男から目は離していない。けれど男はこちらに構っている場合ではないようだった。
 倒れそうになりながらも、参道を歩いている。もしかすると葵から逃げようとしているのかも知れない。
「どうしよう……あいつノアを探してるみたいだった。四年前に誘拐されそうになった子どもを調べて、それがこの辺りで起こってた行方不明事件に繋がるかどうか、知りたいみたいで」
 そんな理由でノアに接触しようとする男がどうしても許せなかった。
『おまえのことは?バレてた?』
「うん。俺のことも知ってた。ノア?どこにいる?」
 ノアの息づかいが聞こえる。声の後ろから雑音や、風の音も届いてくる。どうやら外に出ている、しかも走っているようだ。
『どこって、ここだよ』
「え?」
 ここ!という力強い声がスマートフォンからではなく、生々しい響きとして聞こえた。
 はっとして顔を上げると鳥居の前に人影が見える。街灯を背後にしたその輪郭はノアだろう。
 そしてその隣をよたよたしながらあの男が歩いて行く。
「危ない!そいつが!」
 電話で喋っていた男だと指摘しようとした。けれどノアはその男の隣を平然と通り過ぎる。
 スマートフォンの通話を切っては、誰もいないかのように葵へと向かってきた。
 男は、ノアを見ない。
「殴られたのか」
「ノア、あいつがさっき言ってたやつだよ」
「分かってる。もう何も分からないだろ。派手に殴られたな」
 ノアが殴られた頬を見ては顔を顰めた。喧嘩をしていたことなんて、頭の片隅にも残っていないみたいだ。
「俺はそういう巡り合わせなのかな。ここで誰かに殴られるっていう」
「馬鹿なこと言うな」
 たしなめる声は優しい。いつもの毒舌とは違った声音に興奮していた心が凪いでいく。
「あいつ、出ていくみたいだけど。いいの?」
 男は神社から出て行った。目的地があるのかどうかも怪しいが、放置しておいて良いのか。
 何かノアが知っているだろうと思うのに、ノアは振り返りもしない。
「放っておけ。あいつはどうしてここにいたんだ。なんでおまえを殴った」
「この辺りで行方不明者が出ているから、それを調べて動画のネタにするんだって……。視聴者を増やしたいから、俺やノアにインタビューをするって無理矢理スマートフォンで撮影されて」
「それでスマートフォンも奪われて、俺に電話をかけられたのか」
「そう……」
「おまえも、いくらなんでもこの時間にどうして神社に来てるんだ」
 いくらこの神社に足を運ぶのが好きでも、夜に一人で訪れるようなところではない。それくらいの分別はある。
「前を通りかかったらあの男がお社の扉を壊して中にある何かを取り出そうとしていたから……」
「放っておけば良かっただろう」
「出来ないよ、そんなこと」
 あんな暴挙は見逃せるような行為ではない。
「それに俺が誘拐されそうになった子どもの一人だってことはバレてたみたいだから、いずれ関わりになってただろうし」
「誰が喋ったんだ」
「近所のおばちゃん連中だって」
 そう言うとノアは目を据わらせた。
「忌々しい」
 呟きは低く、鼓膜が凍り付きそうなほどに冷たかった。
 足元から一気に冷気が上がってくるような恐ろしさに硬直する葵の頬に、ノアは声を裏切りとても優しく触れた。
「ここに意識を集中させろ。あたためるようなイメージだ」
「もう熱いよ」
 殴られた部分は熱を持っている。ズキズキとした痛みは強くなるばかりで、出来れば意識を逸らしていたかった。
「そうじゃない。癒やすように、治るように気持ちを向けろ」
「気持ちを向けろって言われても……」
 治したいのは山々だ、痛みも取り除きたい。
 けれど意識したところでそんな簡単にいくものではないだろう。
 ノアは痛みも痣も気持ちの問題で解決出来るだなんて思い込んでいるのか。
 意外と脳みそが筋肉で出来るタイプなのだろうか。これまでそんな印象がなかっただけで面食らっていると、ノアは困惑する葵に呆れたように溜息をついた。
「口を開けろ」
「え、うん」
 ぽかんと口を開ける。殴られて切れた唇がまた薄く切れて痛い。
 顔を顰めるとノアは躊躇いなくその唇を塞いだ。
「んんんっ!?」
 どうしてキスをするのか。
 帰り道に喧嘩をした時に唇に接触されたけれど、あれはキスというより唇に噛み付かれた。噛まれて傷も作ったけれど、今は噛み付くような荒々しさはない。
 それどころか口の中にノアの舌が入り込んできた。
「んぐぅ!うぅん!」
(舌!なんで舌が入って来たんだ!舌!)
 ぬるぬるとした熱いそれにびっくりしていると、ノアは殴られた頬の内側を舐めてきた。
 鈍い痛みが走り、ノアの腕を掴んで止めてくれと訴える。
 けれどノアは引かない。
 柔らかく、撫でるように舐め続ける。血の味がして、自分が口の中を切っていることを知った。
 だがその血も、二人分の唾液に薄まっていく。
(舌が!ぬるっとする!あ、でも、あったかい)
 舌の感触だけでなく、殴られた部位がふわふわとあたたかいものに包まれていく。
 腫れて熱を持っている違和感とは異なる。
(治そうと、している?)
 まさか舌で舐めると傷が治るのだろうか。そんな馬鹿なことがあるだろうか。
 唾液で傷口を濡らすなんて不衛生でしかないはずなのに、ノアの舌と唾液なら可能なのか。
 驚いている間もノアは葵の口の中を舐める。舐められていると次第に痛みが和らぐ代わりに、ぞわぞわとした奇妙な刺激が腰から這い上がってくる。
「っぅ、もう」
 もう止めて欲しい。
 静電気にも似た刺激に肌が粟立っては、焦れったいような奇妙な衝動に駆られる。
 初めて体験するそれに飲み込まれてしまうのが怖くて、ノアの身体を押し返した。
「……何をしたの?痛くなくなったんだけど」
 殴られた頬を触っても、痛みは消えている。ほんのりと熱っぽいかなという程度だ。
 どうして舐められただけで痛みがここまで消えてしまうのか。
 ノアは不思議な子だ、特別な何かを持っているのだろうと思っていたけれど。人の傷までこうして消してしまうのか。
「ノアは何者なの?人には見えないものが見えて、出来ないことが出来る。ノアはただの人間じゃない。ノアは、何なの?」
 普通の人間ではないと、知ってはいた。
 けれどどこまで普通から逸脱しているのか。むしろどこまで人間なのか。
 その外見が未だに天使のように可愛く、綺麗であることもただの人間ではないからか。
「訊くな」
「でも」
「おまえだけは訊くな。おまえだけは」
 ノアは睨み付けてくる。
 ぱっと見ただけならばそれは憤りだっただろう。
 けれどその瞳の奥が緩んだのが見えた。泣き出してしまいそうな、悲痛なものが滲んでいる。
(どうして教えてくれないんだ)
 知らないのに、記憶の片隅にも見付からない何かを、分からないのかと責められるのは理不尽だ。
 そもそもノアが望むものが自分の中にあるのかどうかすらも、葵には見当が付かない。
 けれどそうして見詰められると言い返せなくなる。
 ノアはずるい、酷い。
 だがそんなノアに手を伸ばして、抱き締めたくなるこの気持ちをどう処理して良いのか分からなかった。
 自分と大差ない、未熟で細いばかりの少年の身体を腕の中に引き寄せる。
 耳と肌を通して感じられるノアと自身の鼓動を引き離そうとするように、バンッ!と激しく何かがぶつかる音がした。
「人が轢かれた!」「誰か救急車を!」そんな悲鳴が遠くから聞こえてくる。
 だが背中に回されたノアの背中に、葵は目を閉じた。
 



了 



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