春の終わりを待って 兆し 5 翌朝のノアは遅刻ぎりぎりに登校してきた。 いつもならば我が家の前までやって来て、葵を待ってくれているのに。今朝は姿が見当たらなかったので予想はしていたのだが。珍しく不機嫌そうな顔で教室に入ってきたノアに、クラスメイトたちが一瞬ざわついた。 だが誰一人問いかける間もなく、担任が教室に入ってきては私語を慎まなければならない空間に変えてしまう。 (また何か言われたんだろうな) 少し離れた斜め前の席に座っているノアの、異国の血が入った端麗な横顔を眺める。 「外国人だと散々言われたさ。外国人だから日本のマナーも分からないんだろうと、俺まで巻き込んで」 休憩時間、ノアは昨日の法事で何があったのかざっくり教えてくれた。 イギリス人である父親を、母方の親戚の一部が気に入らないらしい。法事に参加した父親とノアに散々嫌みを言っては母親を冷淡に扱ったそうだ。 会うと毎回そうであるらしい。父親とノアは日本語が分からないと思い込んでいるそうで、それは口汚く罵る場合もあると聞いて葵まで嫌な気持ちが込み上げてくる。 「日本語はちゃんと理解している。そう言ってもあいつらの頭は理解出来ないんだ」 他のクラスメイトには聞こえてないように、小声で口にしたそれにはっきりと侮蔑が込められていた。 親戚は散々ノアたちに絡んだらしい。帰ろうとするそのタイミングを潰しては、言いたい放題だったと。 両親は親戚間のもめ事を嫌う祖父母の顔を立てて大人しくするしかなく、ほぼ泣き寝入りをしたそうだ。 帰宅は深夜になり、おかげで寝る時間が大幅にずれて今朝は遅刻したらしい。 「大変だったな」 「あいつらの葬式まで会いたくない。葬式だけは笑顔で行く」 ノアの人間嫌いはそこから来ているのだろうと思うほど、憤りがたっぷり込められた声音だった。 睡眠不足のノアは授業中に居眠りをしては、教師に指摘をされていた。何せノアは色合いからして他のクラスメイトとは違う。存在が際立っているので、何をしていても目を引く。 居眠りもろくに出来ず、ましてノアが面倒くさがる体育の時間も今日は入っており。放課後のノアの機嫌は最低といっても過言ではないほど酷いものだった。 「カラオケで俺のことばっかり喋っていたらしいな」 帰り道でノアはむすっとした表情でそう言った。今日は部活は休みの日だが、カラオケに行ったメンバーの一人が同じクラスにいる。 彼は面白おかしくあの日の出来事を話したのだろう。 「言わされただけ。みんなノアのことを聞きたがるから」 ノア本人が居ない分だけ、遠慮なくあれこれ尋ねられた。 そんなに知りたいなら本人に訊けと言いたいところだが、ノアが適当にはぐらかすか、その場限りの嘘ばかりつくので葵から聞き出そうとするのだろう。 「ノアがいなくても、ノアばっかり意識してるからな」 クラスメイトも部活のメンバーも、ノアを気にして動いている。 ノア自身は望んでいないだろうがそこにいるだけで他人の関心を引くのだ。それだけ容姿が優れている。 「おまえのことを気にしているやつだっているだろう」 「そんなことないよ」 「いたはずだ」 ノアは断言する。 まるで山吹が葵の隣に座り、葵に注意を向けていたその様を見透かしているようだ。 「……ノアとは、友達なのかって訊かれた」 どうしてそんな話題を切り出したのか。自分でも分からなかった。 見れば分かるだろうと思ったのは自分自身なのに、どこかでそれに疑問を持っていたのかも知れない。 ノアがいつものように呆れた様子で「今更何言ってんだ」と言ってくれれば簡単に解決した問題だ。 そして葵はきっとそうなるだろうと、無意識に期待していたのだろう。 だからこそ目を見開いたノアに、足を止めてしまった。 「え……」 自然と口から驚きが零れていた。 そんな葵に、ノアは口元を歪めた。 「反吐が出る」 眦を釣り上げて、ノアは顔を顰めた。 そんな話は聞きたくなかった。耳にするのも嫌だ。 ノアはそんな感情を露わにしていた。 それは葵に対して、忘れたのか、裏切り者、と言う時に似た、もしかするとそれよりも強い怒りだった。 友達だと決め付けたわけではない。ただそうじゃないかと考えた、周囲からそんな風に捉えられていたという伝えただけだ。 それだけなのに、反吐が出るほどの嫌悪を滲ませるのか。 「……さすがに、ショックだ。これまでノアには散々言われたきたけど、そこまで言うんだ。なのにどうして一緒にいたがるんだよ。俺の行くところに当たり前みたいに付いてくるし、進路まで合わせようとしてるだろ」 ノアは明言していないけれど、葵が進もうとしている道に付いてくるつもりだろう。 何せノアは自分の将来について何も語らない。それは最初から想定していないような態度だった。 なのに葵の選択は知りたがる。まるでその選択に合わせるための準備期間を欲しがっているみたいに。 「ノアならどこにだって行けるだろ」 成績なら葵よりも良い。英語が堪能なので、葵などより将来の選択肢は多いはずだ。 日本を出る、という可能性だってノアの場合は簡単だろう。 だがノアはそれを葵という人間一人のために、全部捨てているように見えた。躊躇いを一切匂わせない。 「どうして俺のそばにいたがるんだよ」 「おまえがそれを言うのか」 「言うよ!だってノアのことは何も知らない!おまえが俺を責めること、何一つ思い出せない!もう四年になるけどノアが望んでいるようなものは何も分からない!なのに全部俺のせいにするだろ!知らないよ!」 知らない、分からない。 それはノアにとっては苛立ちに繋がるものだ。 これまで何度もそう口にして、ノアに睨み付けられた。 けれどこんな言い方をされてまで我慢は出来なかった。喧嘩になると予想しながらも、感情に任せて怒鳴り続ける。 中学生になっても可愛らしさをしっかり残したままのノアが、案の定険しい顔で葵を正面から見据える。 けれど今日は怯まなかった。 (反吐が出るなんて言い過ぎだ) 馬鹿だのアホだのはもう聞き慣れたけど、反吐が出るなくて言い方はあまりにも酷い。 日常で聞いたこともなかったような、残酷な言い方だ。 負けないとばかりに睨み合っていると、ノアが口を開けて急に顔を寄せてきた。 「いっ」 突然唇に噛み付かれた。鋭い痛みと皮膚が破ける嫌な感触。 反射的に指先で唇に触れると、そこには血が付いていた。 「何するんだよ!」 間近にいたノアを突き飛ばそうとした。けれど逆にその手を掴まれては指を交互に絡めるように掴まれた。 恋人繋ぎだなんて、以前ノアと冗談で手を繋いだ時に笑いながら言ったものだが。あの時の気楽さは欠片もない。 逃がさない。 そう重い鎖のように指に力が込められている。爪を立てられ、じくじくとした痛みが響く。 「知らないんじゃない。思い出さないだけ」 吐息が触れる距離で、ノアは一言ずつ、葵の中に埋め込むように告げる。 目に見えない手で心臓に埋め込まれていくそれは、とても苦しくて、恐ろしい。 目をそらすことも、閉じることも許さないだけの威圧感がノアにはあった。 (何か、見える……) 数センチ先のノアの瞳の奥でひらりと蛍の光のようなものが揺らめいている。 背筋がぞわりとして、ノアの手を力一杯振りほどいた。 乱暴にノアを突き飛ばすと、ノアが顔を逸らした。 「なんで、こんな酷いことするんだよ……おまえなんか、もう知らない!」 ノアの可愛い顔や、なんだかんだ反省してくっついてくるところにほだされて一緒にいた。大抵のことは許してきた。 けれどこれはいくらなんでも度か過ぎる。 容赦なくノアを突き放すと、ノアは哀しげな瞳でじっと見詰めてきた。 さきほどまで強気どころか、葵を支配して当然であるかのような傲慢な態度だったくせに。一言冷たく言い放たれただけで肩を落としてしゅんと小さくなる。 その変化にぎゅうと胸が締め付けられた。 「そんな顔しても駄目だから!駄目だからな!そんな顔するくらいなら最初から酷いことするなよ!」 一方的にノアを傷付けたわけではない。むしろ傷付けられて、正当に言い返しただけだ。 なのにノアは眉を下げてはびしょ濡れで震えている仔猫のように心細そうにこちらを見てくる。 抱き締めなければ人でなしではないか。そんな罪悪感をこれでもかというほど掻き立てられた。 けれど謝らなかった。 「ごめん」と言えばまた同じことが繰り返される。 反吐が出るだなんて罵倒は二度と聞きたくなかった。 「俺は悪くないから」 そう自己防衛として言い残し、葵はノアに背を向けた。帰り道から外れるけれど、とてもこのまま二人並んで帰宅なんて出来ない。 ノアはくるりと方向を変えて歩き出した葵を引き留めなかった。 だがもし振り返ったのならば、きっと自分をじっとすがるように見詰めてくるのだろう。 そんな予感がして、背中が痛かった。 next |