春の終わりを待って 兆し 4 ノアの家を出るとすっかり夕暮れだった。 晩ご飯に誘われたけれど、頭を下げてお断りをした。 遊びに行った日は毎回呼ばれている。その度にほいほい食べさせて貰うのは良くないことだと両親から教えられていた。 相手の親御さんの負担になるから、と母に諭されて葵はいつもそれをきっちり守っていた。 ノアの家で晩ご飯を食べるのは基本的にお泊まりをする時くらいだ。 それに今夜の我が家の晩ご飯は野菜たっぷりのカレーだと聞いている。 母が作る夏野菜カレーは抜群に美味しいので、帰り道の足取りは軽い。 自宅に近付くとカレーの匂いがするのだろうな、と期待しながら神社の前を通ろうとした。 すると鳥居の近くで誰かがうろうろしていた。 日が落ちきって、茜色に染まった空は酷く薄暗い。街灯の光が周囲を照らすほどの夜でもない、中途半端な薄闇は人の輪郭を曖昧にする。 (誰だ) 黒い服を着ている小柄な体格は性別の差もぱっと見分からない。つい近付いて行くとそれが、最近この神社でよく見かける若い男だと分かった。 葵が神社に立ち寄ると参拝をしているか、狭い境内を眺めながら歩いている。 こんな小さな神社に熱心に通うなんて珍しいなと、自分を棚上げして思ったから印象に残っている。 男は鳥居を見上げたかと思えば、柱の根元や沓石をじろじろと観察しているようだった。何を思っているのか、その表情は暗くて見えない。 声をかけようかどうしようか迷っていると目が合った。 「ああ、君か」 葵を見ると男はすでに顔見知りのように親しげに声をかけてきた。 「何か探してるんですか?」 「うぅん、ちょっとね」 男は煮え切らない返事をする。その手にはスマートフォンが握られていた。 「……ねえ君。この神社で何度か見たけど、近所の人なんだろう?」 「はい。近くに住んでます」 「じゃあ四年前にこの辺りで行方不明が出たって知ってる?神隠しじゃないか、って噂されているんだけど」 突然、四年前に我が身に降りかかった出来事を他人が掘り起こしてくる。 目の前にいる葵が、その事件に関わった者なのだと男は知っているのだろうか。 「そんなことも、あったらしいですね……」 まさかその事件はよく知っている。神隠しだなんて言われているけれど、行方不明になった男がどんな状況で消えてしまったのかも見ている。 なんて言えるはずもない。 「じゃあその神隠しに遭った男が、子どもを誘拐しようとしていたっていうのは?」 ひゅっと声が出そうだった。心臓はどくんと大きく跳ねては、耳の奥で響く。 (俺がそうだって、知ってる?知らない?) 男はじっと目をこらすように葵を見ている。 次第に夕闇が深くなっていく。 目の前にいる男の顔まで隠していくようだった。真昼に見かけたあの男かどうかも怪しくなっていく。 一体何と向き合っているのか。 そんな根本的な疑いまで生まれてきては、ぎゅっと拳を握った。 「そう、らしいですね。おばちゃんたちが噂してました……」 この辺りでは有名な話で、当時は子どもを一人で出歩かさないようにと子どもがいる家庭には注意が回っていた。 なのでこの町では神隠しも、消えてしまった人間が誘拐をしようとしていたことも知られている。だから知らないと白を切りはしなかったけれど。これは探られているのだろうか、警戒が強まっていく。 「それが、どうかしたんですか?」 「この辺りは行方不明がよく出ているって気になったんだ。僕はそういうものを調べて動画にして、ネットにアップするんだ。ネタになるかなってこの辺りを取材しているんだよ」 男はスマートフォンを嬉々として操作し始めた。それまでのやや大人しそうな印象を覆し、好奇心を剥き出しにして葵に近付いてくる。 ざらついた視線を不躾に向けられて、思わず身体を固くする。 「ネットに行方不明のネタをアップしてるって、どういうことですか?」 「怪奇現象っていうのか。不思議な話ホラーっぽい話題を見付けてきてはそれを動画で編集して、アップロードサイトに上げてみんなに見て貰ってるんだ。僕のチャンネルは結構人気なんだよ。そのチャンネルでここの行方不明の話題を取り上げようと思って。君も取材させてくれない?たまに地元の人に取材もしてるんだ」 「止めてください!」 スマートフォンの背面、カメラを向けられて反射的に手で顔を覆った。それでも男は引かず「ちょっとでいいから」と距離を詰めてくる。 「迷惑ですから!行方不明の人はもう解決したんです!そんなのネットに上げるなんて騒ぎになるだけです!」 「地名はぼかすよ。大丈夫だって」 平気平気とへらへらと笑う男に怒りが込み上げるけれど。こうしているやりとりも動画に撮られているのと思うとぞっとして男に背を向けて走り出す。 どんな姿であったとしても、男のカメラに撮られること自体がリスクだと判断したからだ。 (行方不明になった男……) 四年前の出来事が蘇ってきては、ノアの顔が浮かんでくる。 ノアが何をしたのか、未だに葵は知らない。知らないまま、それは葵の記憶の奥によどみとして揺蕩っている。 ノアは一体何者なのか。 何を知り、葵に何を求めているのか。 葵はそれを一切知らない。分からないまま、ノアと一緒に過ごしている。 ノアが好きな食べ物も、口癖も、猫を被るのが上手くなっていく様、ノアの身長がどうやって伸びたのかも知っている。 いつも隣にいたから、虹彩がキラキラとした万華鏡のような模様をしているのもちゃんと見ているのに。 ノアの心の奥、大事な部分には一度も触れたことがない。そこはすっと閉ざされている。 (ノアは俺に怒っているままだ。だから何も教えてくれない) だが何も分からない葵にも苛立っている。黙っていられては何も分からないままなのに。 解決方法が見付からない問題の中をぐるぐると回っているようなものだった。 ノアも葵に何かを教えたいなら、思い出させたいならヒントだけでも与えてくれれば良いだろうに。 (ずっと一緒にいるのに……) 「二人ってずっと一緒だよね」 葵を通してノアをカラオケに誘おうとして失敗した女子が、ぴったりと横にくっついてはノアのことばかり尋ねてくる。 葵は半分聞き流しながら、質問に答え続けていたのだが。自分の中にあった疑問と、女子の問いかけが重なっては、思わず瞬きをしては改めて女子の顔を見た。 うっすらと化粧をしているのだろう。皮膚の表面には微かに照明を反射するようなキラキラとした粉が付いており、睫毛もくるりと綺麗なカーブをしていた。ぷっくりとした唇は異様な艶があり、可愛さというものをこれでもかというほどにアピールしていた。 (素朴じゃない) 可愛いとは思うけれど、いつも隣にノアがいる葵にとってそれは違和感を覚えるものだった。 ノアは肌に何も着けなくても透き通るような白く、きめ細やかな肌をしている。睫毛も長くすっと自然に伸びており、瞬きをすると明るい色の睫毛がささやかな風を起こすのではないかと思っていた。 ほんのりと色付いた唇は葵によく毒を吐くけれど、思わずといったようにほころぶ様は彼の庭の薔薇よりも艶やかだ。 生まれながらにして、やはりノアは可愛い。 「葵君とノア君は同じ小学校なんだよね」 葵がノアと女子と無意識に比べては、ノアの可愛さを思い出しているなんてことも知らず、女子は上目遣いで小首を傾げている。 どうしてそんなに姿勢を低くするのかが分からない。この子の身長は葵より僅かに高いのに、そう身を縮めるとアッパーを繰り出すのに丁度良い体勢だ。 顎を殴られるような展開ではないと思うけれど、なんとなく顎に手を当てて防御の構えを取ってしまう。昨日はノアと格闘ゲームをやりすぎたかも知れない。 「うん、五年生の頃にノアが引っ越してして、同じクラスになったんだ。家も近所だったし」 「いいなぁ〜」 羨ましがる女子に、葵は何とも言えない気持ちになる。 (初対面で怒鳴られた上にアパートは倒壊したけどな) 「ずっと一緒にいるし、二人って親友で何でも知ってるって感じだよね」 女子の一言がぐさりと突き刺さる。 分からないと胸の内に揺蕩っているものを急に力任せに握られたようだった。息が詰まり、遅れて締め付けられるような痛みがじわりと葵の中に広がる。 女子は葵が黙り込んだことに不思議そうだったが、何か言う前に順番で回ってきたマイクに気を取られた。わざわざ立ち上がって、楽しげに自分が選んだ曲を歌い始める。 「二人って、本当に仲が良いの?」 反対側に座っていた同じ園芸部の女子、山吹が呟くようにそう告げた。聞き間違いかと思ったけれど、山吹の視線は刺さりそうなほど真剣に、葵に向けられていた。 真実を求めている、そう強く訴えるような眼差しだ。 嘘を言うつもりもないのに、緊張が走る。 「なんで、そんなこと訊くの」 「だっていつも一緒にいるけど、たまに彼はすごく葵君に対して厳しい。びっくりするくらい、冷たいよ」 よく見ているものだと感心してしまう。 (俺と二人きりだと思ってる時のノアを、山吹さんはどこかで見ていたんだろうな) 彼女を心配させてしまうほど、がらりと態度を変えているので無理もない。 「それは、たまたまだよ」 「だけど嫌じゃないの?」 「大丈夫」 「……それでいいの?あの人の優等生面に、付き合わされて」 山吹は随分辛辣な言い方をする。優等生面という、かなり棘の付いた言い方が意外だった。 女子がノアのことをこんな風に悪く言うのは初めてのことだ。ノアに好意を持つか、それとも遠巻きにして避けるかどちらかだと思っていた。 「そういうやつだから。俺は別に何とも思ってないよ」 あんなにも上手に猫を被るのは大変だろうに、とは思うけれど。ノアが好きでやっていることなので、反対するわけでも、止める気もない。 ノアはそういう人間なのだと、すでに慣れてしまっている。 だが山吹はあっけらかんとしている葵に懐疑的だった。我慢をしているのではないかと、勝手に心配しているのかも知れない。 「なに二人でこそこそ喋ってるんだよ」 顔を見合わせているかのように思えたのか、男子が山吹との間に割り込んでくる。 「おまえもせっかくノアがいないんだから、もっとこっちに構えよ」 「ノアがいようがいまいが変わらないって」 「そうかー?だってあいつがいるとおまえって、べったりノアに構ってるじゃん。ノアもそうだし!」 べったりという単語に揶揄いが混ざっているのは間違いないだろう。それほど常に一緒にいるのは、男子から見て少し異様らしい。 「ちゃんと聴いてよ!頑張って歌ってるんだから!」 マイクを持っている女子が、割り込んできた男子の肩を叩く。 カラオケで友達の歌を真面目に聴くなんて、歌っているのが相当上手なタイプでなければ珍しいと思うのだが。女子は自分が中心であり、自分が何かしている時は周囲はそれを注目していなければいけないと思っているらしい。 男子が不満を漏らすけれど、女子は「聴いて!」と我が儘を突き通そうとしている。 「……二人って、友達?」 山吹はそんなやりとりの隙間に、根本的な問いかけを投げてきた。 どこからどう見てもそうだろう。 他の人から軽く質問されたならば笑ってそう返した。 けれど磨き抜かれた水晶のような瞳の前では、何故か言葉に詰まる。 「たぶんね」 next |