春の終わりを待って 兆し 3 太陽をすっぽりと覆い隠してくれる雲は、始まってしまった夏の暑さを和らげてくれていた。風は肌に心地良く、テラスの椅子に座っていると眠気を誘われるほどリラックスしていた。 ノアの家のテラスは薔薇園の真ん前にある。ノアの母が毎日手間暇を掛けて、愛情を注いでいる薔薇たちは先月まではそれは見事に咲き誇っていた。 ビロードのような花びらが西洋貴族のドレスのように幾重にも重なっては、満開の美を披露していた。薔薇園ではパーティーが行われ、色取り取りの薔薇たちはまさに盛りを謳歌していたものだ。 ご自慢なのはその花だけではない。まるで歌うように甘い香りを漂わせては人々を楽しませてくれていた。 楽しげな声に耳を傾けるように、呼吸をする度に肺の中まで華やかな気分になれた。 植物園ならばともかく、あれだけの薔薇を集めて香りを楽しみながらお茶を飲むなんて、一般家庭ではなかなか味わえない豪華な時間だった。 しかしその薔薇も満開は過ぎた。今は花びらを落としては静かに次の盛りを迎えるために眠りに就いている。 しかし葉ばかりになったとはいえ、緑の色合いは生き生きとして弾けそうな水分を含んでいるのを感じる。 栄養が隅々まで行き渡っているのだろう。 薔薇の花が散った後、葵の視線を引き寄せたのは鉢植えの朝顔だ。 一鉢しかない上に薔薇に比べれば随分と落ち着いた、楚々とした姿なのだが。葵が気にしているのは理由がある。 それは葵が小学生の頃に、学校で育てた朝顔の種から育ったものだ。 葵が育てた朝顔はとうに枯れてしまったのだが。咲いた花が残した種を捨てずに保存していた。ノアにたまたまその朝顔の種の話をすると欲しがったので、あげたのだ。 するとノアは自宅で朝顔を育て始めた。 世話をしているのは母らしいが、それでもノアはたまに水やりなどをしてくれているらしい。 小学生だった葵が育てた朝顔よりよほど立派で、鮮やかな青紫色の花はこの家で育てられてきっと満足していることだろう。 他にもグラジオラスやサルビアなども咲いている。ガーベラのようにも見える淡い黄色の花をしたイタリアンヒマワリは夏のこの庭の象徴になっている。 洋館のような家に相応しい花が目立つけれど、金木犀や椿、梅などの日本を印象づける植物も植えられている。ノアの両親が好きな花を絶妙なバランスで配置しているようだった。 おかげでいつ来ても何かしらの花が咲いており、寂しさを感じさせることがない。 葵はこの庭に来るまでそれほど植物が好きだという気持ちはなかった。 自宅には植物が一切なく、街中で桜などを楽しむ気持ちはあっても、家でのんびり眺めるという感性はなかった。 しかしこの庭があまりに心地良いので、いつも遊びに来ると庭に面したテラスで過ごしたくなった。 ノアの母はそんな葵の我が儘を歓迎してくれる。 自慢の庭を息子の友達も気に入っているというのが、嬉しいのかも知れない。 午後三時になるといつも紅茶とおやつを出してくれる。 夏場は水出しのアイスティーだ。何やら有名なメーカーのものであるらしいのだが、花のような香りして美味しいということ以外よく分からない。 注がれる硝子のコップにはうっすらと細かな花が描かれている。アイスティーを注ぐとその花の模様が浮かび上がってくる。 バターたっぷりのフィナンシェが並べられており、中学生男子には似合わないほどの麗らかな午後のティータイムなのだが。 フィナンシェの横にはポテトチップスが袋を全開にして置かれている。そして二人の手には携帯ゲーム機が握られており、指は忙しなく動き続けていた。 生憎お庭を眺めて上品なお話をするような性格でも間柄でもない。 「俺が言った予定はちゃんと頭に入れておけよ」 「ごめんって」 日曜日に葵だけが部活のメンバーとカラオケに行くことに、ノアは少し拗ねているようだった。仲間外れにされた、という感覚ではないだろう。単純に葵が自分ではない人と一緒にいるのが気に食わないだけだ。 ノアは大人っぽいくせに、たまにそうして幼稚園児みたいなだだをこねる。 (休みまで予定を合わせる必要なんてないと思うけど) そんな冷静な意見も浮かんでくるけれど、口からは出さない。ノアがもっと拗ねるのが分かるからだ。 「だけどカラオケか。何が面白いんだか」 「ノアはうるさいのが好きじゃないもんな」 大人数が騒ぐ場をノアは好まない。大人しくその場にいて、話しかけられれば答えるけれど。解散した後に苛立ちも露わにうるさかったと吐き捨てるのだ。 今のように、静かで穏やかな時間の中にいるほうが良いらしい。 「素人の歌なんて聴いて何が楽しいんだよ」 「歌うのは嫌いじゃないくせに」 カラオケに行くのは渋るくせに。マイクが回ってくるとちゃんと歌う。 元々の声が耳に心地良い響きであるせいか、ノアの歌は特別上手というわけではないのに、聞きやすい。 「歌ってない時はべったり誰かくっついてくるから気持ち悪い」 「気持ち悪いって。そこまで言うか。ノアに構って欲しいんだろ」 カラオケという狭い空間。教室と違って人目の少ない、同じ部活の人たちという気心も知れた関係の中にいると、女子は大胆にノアに接触しようとする。 カラオケに行こうと誘ってきた女子も、ノアに接近するために葵に声をかけてきたに違いないだろう。ノアが顔を歪めて「うっざ」と厭っているとも知らずに。 (そう思うと気の毒だ) そこまで嫌ならば、はっきり止めろと言った方が彼女のためではないかと思うのだが。優等生ぶっているノアは、そっと女子を押し返して曖昧に言葉を濁す。 察しの良い人ならばすぐに気が付くだろうが。恋に盲目的になっている彼女には通用しないらしい。未だに猛烈にアプローチが続いている。 「紅茶のおかわりはいる?」 ノアの母がやって来てはポットを交換しようとする。 「大丈夫です。ありがとうございます」 頭を下げるとノアの母はにっこりと微笑む。ノアの母だけあってとても美人なのだが、真っ直ぐな黒髪や深い色の瞳は自分と同じ日本人だと感じる。 「またポテチばっかり食べて」 「美味しいんだよ」 「お母さんが焼いたフィナンシェは?美味しい?」 ねえねえと母は息子に詰め寄っていく。ノアは強引な母に溜息をついては「……美味しいよ」とぶすっと、だが素直に答えている。 それに母は「良かった」とそれは可憐な花のように微笑んだ。 ノアは自宅でも可愛げを捨てて、我が儘で口の悪い、ありのままの姿で過ごしている。 どれほど不機嫌そうな顔をしていても、喋っているのは本音だ。 「葵君。ノアは学校でちゃんとやれている?家に居る時みたいに、口が悪くなったりしていない?今度みんなでカラオケに行くのに、ノアは行かないって言ってるんでしょう?また変な意地を張ってない?」 「カラオケに行かないのは法事だからだろうが!俺が法事をサボってもいいなら行くよ!」 「あら、あの日なの」 「そう言っただろうが!どいつもこいつもまともに人の話を聞けないのか!」 「ノアは学校では上手くやってます。紳士です」 イギリスは紳士の国であるらしい。彼の父はそれを誇りに思っているそうで、ノアにもそうあって欲しいと聞いたことがある。 ノアの母は紳士という単語に、安心したように笑みを深めた。 「それなら良かった。こっちに来て、葵君と友達になってからノアも人間に興味を持ってくれて嬉しかったのよ。向こうでは妖精さんたちが友達だったものね」 「妖精さん」 ノアの母はイギリスについて話をする時、たまに妖精というものを口にする。イギリスでは未だに妖精というものが人間の世界に住み着いており、生活の中に馴染んでいるらしい。 ノアの母はそんなイギリスの文化が好きなのだという。日本の八百万の神様と似ているそうだ。 けれど妖精がノアの友達だったというのは、初耳だった。 「母さん」 たしなめるようなノアの声、目を伏せたノアの母に、触れてはいけない雰囲気を感じた。 これまで聞かなかったのは、言えなかったからかも知れない。 「大人には見えないけれど、子どもには見える。そういうものが身近にいるのよ。ノアにはそれがよく見えたのね」 おっとりとしたノアの母が、声のトーンを落として呟くようにそう語る。 苦悩の色が色濃い横顔に、葵の知らない小さなノアが周囲から孤立していた様が想像出来た。人に見えない妖精を慕い、葵といる時のように友達として扱う様は、おかしなものとして大人たちに見られたのかも知れない。 寂しげな瞳にノアはもどかしげに身じろぎをするけれど、言葉は出てこないようだった。 「俺もよく分からないところをじっと見詰めるような子どもだったらしいですよ。五歳くらいまでは、見えないものを見ていたらしいです。猫みたいだってって親は笑ってましたけど」 「猫ちゃんね。もしかすると赤ちゃんも猫ちゃんも、同じものを見ているのかしら」 「そうかも知れません。もう覚えてませんけど。猫と同じものを見てるっていうのは、面白いかも」 葵がそう言うとノアの母は顔を上げて脱力したように表情を緩めた。 「ノアも猫ちゃんに似てたのかも知れないわね」 「今も猫にそっくりですよ。学校では猫被ってますから」 それはもう巨大な猫だ。 毛並みが良く気品高い長毛種の猫がぴったりだ。マフィアのボスの膝でくつろいでいるやつだ。 「うちでは玄関で猫の被り物を脱いでるのね」 そう言ってノアの母は息子の頭を撫でては「ごゆっくり」と言い残して部屋の中へと帰って行く。 二人きりに戻るとノアが憂鬱そうにアイスティーに口を付ける。 「イギリスでは何が見えてたの?」 ノアの母は妖精だと言っていたけれど、本当だろうか。 イギリスにいた時だけでなく、こちらでもノアは不思議な力を葵に見せてきた。それは他の人間には隠しているようだが、おそらくこうしている今もノアの中には何かがあるのだろう。 それはイギリスで見ていた妖精に通じているのか。それとも妖精自体が、別物だったのか。 葵が少しばかりの緊張を持ちながら問うているというのに、ノアは知らぬ顔で「さあ」と手元のゲーム機へと視線を落とした。 「ノア」 「別に、何でもいいようなものだよ」 つまらない様子で突き放される。 喋りたくないことは喋らない。執拗に尋ねると冷たく振り払われて口を開かなくなるというのはこれまでの経験で学んでいる。 「……俺もイギリスに行ったら見える?」 「知らない」 取り付く島もないというのは、こういう様子だろう。 「英語が喋れないから、そもそも行くのは無理か」 「俺がいれば不便じゃないだろ」 「そっか」 イギリスには一緒に行ってくれるのか。 ノアは当たり前のようにそれだけは答えてくれる。 離れないという主張にも聞こえては、ゲーム機の画面ではなく美しいその容貌を眺めてしまう。 (むしろノアが妖精みたいだな) 出逢った頃はまさに天使であり妖精だった。 そう思えば、ノアが妖精と友達だったというのは、自然なことかも知れない。 next |