春の終わりを待って 兆し 2 「花屋もいいなんて、この前言ってなかったか?」 ノアはトマトの葉を撫でながら、以前ノアの家に遊びに行った時の会話を引っ張り出してくる。 「それはノアの家の庭が綺麗だったから」 ノアの家の庭はとても賑やかだ。多くの花々が植えられている上にいつ行っても何かしらの花が咲いている。 洋館のような家を取り囲むように、緑豊かにデザインされている庭はイングリッシュガーデンをイメージしているらしい。 「あの時はノアの家で薔薇がすごく綺麗に咲いていたから」 庭で最も多く、そして象徴的なものとして植えられているのが薔薇だ。ノアの父親が薔薇が好きであるらしく、妻であるノアの母が熱心に世話をしているらしい。 仲の良い夫婦である彼らは、双方が喜んでくれるようなことを、日常の細々としたところから気遣い合っているそうだ。 夫に対する愛情がふんだんにつぎ込まれた薔薇は、先月まで堂々とした花を咲かせていた。毎年初夏にノアの家に行くと甘い薔薇の香りを肺一杯に吸い込める。 艶やかな薔薇の美しさに、愛情を込めて、丁寧に毎日世話をしていれば花は笑顔のように咲き誇るのだと目にして。花屋も良いな、なんてぽろりと零したのだ。 「庭師じゃなくて花屋なんだな」 「だって庭師は生け垣とか、そういうのを整えるのがメインだって聞いたから。せっかく世話をするなら、やっぱり花がいいなぁ」 「我が儘だな」 その声は少し笑っている。 「やっぱり花に触れたいから。ノアの家にいる咲いている花とか、植物みたいなのに触れたいな」 やはりそれは花屋、もしくは花を栽培する職業などが良いのだろうか。 漠然と考えるけれど、これだ!と感じる決め手なんてものは浮かんでこない。 そもそも将来の職業をどうするのか。なんて遠い未来としか思えないのだ。 「何でもいいけど、早く決めろよ。それによって進路が変わるだろ」 「まさか俺に付いてくるつもり?」 いくら友達を気に入っているからといって。進学まで揃えてくるだろうか。 まして普段あれだけ葵に文句ばかり言っているのに。一緒にいたいだなんて、思ってくれるのだろうか。 からかうようにノアの顔を覗き込むと「はあ?」と呆れた声と共に軽く睨み付けられた。 (まあ、そうか) 納得の反応に思わず頷いていると、微かに聞こえていた女子の声が無遠慮に近付いてくる。 「一緒の高校に行く相談?本当二人って仲良いね」 同じ園芸部の女子がやってくる。ショートカットの女子は腰に手を当てて大袈裟に驚いたような態度でこちらを見下ろしている。 もう一人肩に付くほどの髪の長さをしている女子は大人しくその後ろから付いてきていた。こちらは同じクラスの山吹だ。 ノアは女子の声が聞こえて、一瞬だけ嫌そうな顔をする。女子たちには背中を向けているので、その表情は葵しか見ていない。 (明らかに鬱陶しいって反応してる) 入部した時は五人しかいなかった園芸部は、現在男女併せて十三人所属している。 ノアを目当てに入って来た女子。その女子と距離を縮めたくて入部した男子。園芸に興味がありそうだったのはノアを除いて一人もいない。ノアを中心として集まったような集団だった。 だがノアは誰に興味を示されても、優しく、そして浅く受け流していくだけだ。 自ら関わりを持とうとするのは葵だけ。だからこそ仲が良いと揶揄われて、時に彼らは葵を邪険に扱う。 女子はノアの隣にしゃがむけれど、ノアの視線はトマトに集中していた。まだ固い表面を撫でては、早く熟せとでも祈っているのだろうか。 「日曜日にカラオケに行くんだけど、二人もどう?葵君は来るよね?カラオケに行きたいって今日言ってたもんね?ほら、新しく出来たあそこ」 昼休みに廊下でクラスメイトたちと喋っていた内容を、隣のクラスにいたはずの女子は漏れ聞いていたらしい。 ノアの近くによくいて、何かとノアに喋ろうとする女子だが。葵の会話にも耳をそばだてているようだ。 そんなにノアに関わりたいのか。 努力というより執念を感じていると、女子はぐいっと強引に手を伸ばしては葵のシャツを引っ張る。 「行くよね?」 声に圧力を込めて、じっと見詰めてくる。行くよな?行かないわけないよな?という脅しをかけられ、反射的に「え、うん」と答えてしまった。 実際、日曜日に用事はないのでカラオケに行くのに何の問題もない。 だが問題があったのはノアの方だったらしい。横目でこちらを見たのだが、その眼差しがぞくりとするほど冷えていた。 (あ、これはまずい) 「ノア君も来るよね!葵君が来るって言ってるし!」 葵が同意したことに女子は満面の笑みを浮かべては、浮かれきった声でノアを誘ってくる。 葵を動かせばノアも付いてくると、いつもならばそれが通用する。なので女子は誘いが成功したと確信のだろう。 けれどノアは眉尻を下げて弱った顔を作り出す。それでも視線はトマトに固定にされているのは、この女子が苦手だからかも知れない。 「俺は家の用事で、日曜日は遊べないんだ」 「そうだっけ?」 ノアとは休日もよく一緒にいる場合が多い。それがもはや自然になっていて、逢えない場合は事前にそんな話をお互いにしている。 けれど今度の日曜日に何かある、なんて話題は耳にしていなかったはずだ。だからカラオケに行くなんて、ノアが目当てだとバレバレの話題に頷いてしまった。 「母方の法事だって言ってたと思うけど」 「それって来週じゃなかった?」 法事は聞いていたけれど、それは来週だったはずなのに。首を傾げるとノアがこちらを見ては苦笑する。 二人きりだったならば思い切り睨み付けてきては「忘れたのか」と責めてくるのに。他に人がいるとそうして、困ったような素振りを装うだけなのだ。 優等生の演技をどこまでも綺麗にやり遂げる。 「親戚の予定がどうしても合わないから、今週に変わったって一昨日言っただろ」 「一昨日……」 「ハンバーグに載っていたら一番美味しいものは何だって、晩ご飯の時に喋ってただろ。その時だよ」 「チーズだ!」 「結論の方じゃない」 一昨日はノアの家に泊まりに行った。それは全く珍しいことではない上に、晩ご飯をご馳走になるのも毎回のことだった。 その際、ハンバーグのトッピングの話題になったのだ。 人参のグラッセや目玉焼きやチーズ、大根おろしなどを述べながら、どれがいいのか喋っていると。ノアの母がチーズと目玉焼きを付け足してくれたので、二人で盛り上がったものだ。 その間にそういえば法事という単語が聞こえていたような気がする。 「じゃあ葵君だけでも」 女子は明らかにがっかりした。 肩を落とした女子に、ノアが目的であって葵などただのおまけだということは誰の目にも分かる。 それでも葵だけ誘われるのが、なんだか居心地が悪くて手を振る。 「いや、俺は」 「行こうよ。二人一緒じゃなきゃ駄目だなんて理由はないでしょう?」 それまで黙っていたもう一人の女子、山吹が葵の横に来てはそう誘ってくる。こちらはあまりノアに注目していない、珍しいタイプの女子だった。 葵をしっかり見てくる山吹に、もう一人の女子とは違う圧のようなものを感じる。 「そうだけど」 ちらりとノアを見ると口元に笑みを作っていた。 (目が笑っていない) 「本人がいいなら俺に許可なんていらないよ」 「そうなんだ。でもいつも一緒にいるから」 「こいつといると楽なだけ」 何でもないようにそう言うけれど、その楽でいられる状態が葵にも実感出来た。 友達の誰といるより、ノアの隣は楽だった。思ったことを思ったまま、そのまま伝えられる。それがどれほど言葉足らずでも、自分でもまだ理解出来ていない感覚であっても、ノアにはちゃんと伝わった。 そしてノアが考えていることも、なんとなく掴むことが出来た。 (俺が忘れている何か以外は) 大切で決定的なそれを欠けている。 だがそれを踏まえても、ノアの隣は楽で、そこにいるのが当たり前になりつつあった。 そんな二人に、肩から流れ落ちた髪の毛を耳にかけながら、山吹は「そう」と曖昧に呟いた。 next |