春の終わりを待って  兆し 1




 梅雨明けを感じさせるような爽やかな晴天だった。
 雲一つない青空は、ここのところ雨ばかりで洗濯物が乾かないと愚痴っていた母親を笑顔にしたけれど。じっとりとした暑さを予感させる面ではあまり歓迎出来ないものだった。
 ノアは日差しを手で遮っては「眩しい」とぼやいた。
 これからの季節、ノアには暑さだけではない悩みが増える。
 明るい色をした瞳は強い光に弱いらしい。特に真夏の日差しの下に出ると目が眩むと言っていた。
 ノアが少しでも木陰になるように、通学路では気を遣ってポジションを入れ替えるけれど。いちいち左右を動くのが面倒だとノアは億劫そうなので、葵が忙しなく動いては、ノアを引っ張ったり、押したりして少しでも日差しを遮っていた。
 今朝もそうして木陰を移動しつつ登校していると、ノアが堪えきれないように笑った。
「おまえ、木の実を集めるリスみたいにちょろちょろしてるな」
「栗とまではいかないからどんぐりでもくれよ」
「ポケットには入ってないな」
 くすくすと笑うノアは、中学三年生になっても、まだ中性的な印象を残していた。声変わりをして背も伸びたのに、顔立ちが綺麗だからだろうか。
 男の子は小さい頃は可愛いのに、思春期からおっさんみたいになる。
 なんて近所の人は言っていたけれど、ノアは可愛さを滲ませたままだ。おかげでアイドルみたいに人目を惹く。
 そんな近所のアイドルだが、ついこの前までは違和感を強く滲ませていた。
「やっぱり学ラン似合わなかったよな」
「うるせえ」
 中学の制服はブレザーではなく、学ランだ。だがイギリス人とのハーフであるノアは、壊滅的なほどに学ランが似合わなかった。
 明るく少しばかり長い髪も、すらりとした体型も、間違いなくブレザーの方が似合った。だぼっとした学ランではやぼったくて仕方がなかった。
 なので夏服になり、白いシャツ姿になると急激に洗練されたような雰囲気を醸し出すようになった。学ランを脱いだだけなのに、高貴な姿になったと女子たちから揶揄われるほどだ。
 格好良くても何でも着こなせるわけではない。
 そう証明していた。
「おまえがここに通うからだろうが」
「まあ近所だからね」
 徒歩で通える距離に、学力的にも適した中学校がある。
 ならば何の問題もなく通うのが葵の家では当然だった。
 しかしノアは親から私立の中学に電車で通わないかと言われていたらしい。そちらの方がノアの両親にとっては気に入る学風だったのだろう。
 だが息子は葵のところに通うと一蹴した。
 親も強くは引き留めなかった。渋い顔をするほど双方の中学のレベルに差があるわけではなかったからだろう。
「しかし日本の夏はクソ暑いな」
「イギリスの夏は涼しいんだっけ?」
「ずっと涼しい。何よりこんなにじとじとしてない。なんだこの湿気」
 マジでうざいと綺麗な顔を顰めながら舌打ちをする。
 そして太陽が作った、色濃く刻まれた足元の影を睨み付けている。大変にガラが悪い。
 どれだけ綺麗な顔をしていても、そうして苛立ちを露わに目を尖らせていれば台無しだ。
 本人もそれは自覚しているのだろう。
 だから中学校が近付いてきて、顔見知りが視界に入ると溜息と共に表情を変える。そして一拍おいてから穏やかな笑みを浮かべるのだ。
(今日もしっかり作り込んできてるなぁ)
 見事な猫を今日も被っている。優等生面は今日も健在だ。
 小学生の頃から幾度も真横で眺めてきたけれど、年々精度が上がっているような気がする。これほど裏表があると、ノアに対して不信感が湧いてきてもおかしくないが。逆に裏も表も全部見せてくる分、他の人よりずっと信用出来るのではないかと思っていた。
 今更優等生ぶったり、嘘をついたりもしないだろう。
 酷くても本音を言ってくれるはずだ。
 その方が葵にとっては居心地が良い。
「おはよう」
 クラスメイトの女子が挨拶と共に手を振る。それにノアも笑顔を返していた。
「あの女いつも俺の隣にいるおまえのことをスルーするが。目ん玉にミュート機能でもついてんのかよ。クソ失礼だから俺の視界にも入ってくんなって思ってんだけど、俺の眼球はTwitterじゃないからミュート機能付いてないんだよな。不便で困る」
 ノアは優しげな表情で、他の誰にも聞こえないように小声でそう葵に語りかけてくる。
 端から見れば和やかな会話をしているように見えるだろうが、誰がどう聞いても罵りでしかないそれに、葵は今日も「言い方が酷い」と一言だけ返していた。
「おまえは他の人間には優しいな。俺に対しては酷いままなのに」
 ノアは目を半眼にしては、硬質な声音で吐き捨てる。
 聞き飽きてしまったそれに、葵は目を逸らした。
 ノアが期待しているだろう何かを、葵はまだ思い出せていない。



 小学生の頃でも女の子の視線をよく独り占めしていたけれど。中学に入ると女子たちは次第にその視線を強く、そして複雑にしていった。
 誰と誰が付き合っているなんて話題が生徒たちの間で頻繁に聞かれるようになると、ノアはどうだという噂も混ざるようになってきた。
 それだけ人の注目を否が応でも集めてしまう。
 顔が良いだけではない。親しくない家族や葵以外には穏やかで優しい性格を見せているので、表面上は「良い子」のままだ。まして成績も悪くない。中でも英語は当然ながら教師よりも堪能だろう。
 ただ運動はあまり好きではなかった。
 それは少女漫画の中にいる王子様との唯一の違いでもある。苦手というほど不得意ではないようだが、運動を自ら楽しむという意欲はなかった。
 運動神経もせいぜい平々凡々な葵と大差ない。やる気が一切見当たらないので、当然部活は運動部を最初から排除していた。
 静かに少人数で、大して内容もないような部活に籍を置いてだらだらと過ごしたい。
 それが入学時のノアの希望だった。
 必ずどこかの部活に入部しなければならない、この中学において。ノアが一体どこに所属したのかといえば。
「暑いのは嫌だけど、野菜がすくすく育つのは悪くない」
「きゅうりも大きくなってきたな〜。今年はどこまで太くする?」
 校舎の裏側に小さな畑がある。そこで毎年園芸部はトマトやきゅうりなどの育てやすい野菜や、季節ごとの花を育てていた。
 本当はもっと日当たりの良い土地が良いのだが、生憎そんな開けた土地は運動に使われており、園芸部などという日陰も日陰、どんな活動をしているのかも知られていない弱小部に与えられるはずもない。
 それでも午前中はしっかり日光を浴びられる。半日の間で健気に育つ野菜の世話をする。
 毎朝登校してから水をやり、下校時には生育状態のチェック。野菜などがしっかり育ちきると収穫して、そのままかぶりついたり、家庭科室を借りて調理することもある。
 しかし野菜の収穫なんて夏に数える程度しか巡ってこないタイミングであり、大体は校内にある花壇の世話、雑草抜き、たまに土の状態を改善するために肥料を加える。その程度の実に地味でぱっとしない活動だった。
 おかげで二人が入部した一年生の頃、園芸部には先輩が三人しかいなかった。
 それでも当時はノアとクラスが別々だったので、部活の時間にお互いのクラスであった出来事を喋りながら部活を過ごすのは楽しかった。
「トマトも綺麗に育ってる」
 まだ青く小さな実だが、その内側に弾けそうなほどの瑞々しさが詰まっているのが感じ取れる。今朝吸い上げた水が葉の先端までしっかり行き届いては、たっぷり朝日を浴びたことだろう。
「そういえばノアはどこの高校行くんだ?」
 中学三年の夏休み前だ、進路については敏感になる時期でもある。進学希望については担任から真剣な面持ちで尋ねられたけれど、葵にはまだ漠然としたものとしてしか捉えられなかった。
 人によっては二年生の時点で進学塾に通い、高校受験に向けてみっちり勉強しているようだが。両親は葵の平均値としか言いようのない成績に何かせっつくこともなく。高校は自分で決めて良いと許可を貰っている。
 ノアは自分より頭が良いけれど、一体どこの高校に通うつもりなのか。そういえば訊いたことがなかった。
「さあ。家から通えるところ」
「そりゃあ、そうなんだろうけど……」
 わざわざ寮に入って、というイメージが最初からなかった。この辺りならばそう苦労せずとも成績に応じて様々な選択肢が存在する。
「おまえは将来何になるんだ?」
 進学先どころか、もっと先の将来について尋ねられて言葉に詰まった。
 具体的に何になりたい、どんな職に就きたいなんてヴィジョンは葵の頭には浮かんできていない。今の生活が楽しいかどうか、野菜は今年もちゃんと育つかどうかに気を取られている。
「何になろうかな……」
「神主になりたいとか、昔は言ってたんだろ?」
「うん。あの神社の神主がいいって。だけど神主は大体親戚のコネがいないと難しいらしいし。何より神主じゃお金にならないみたいだしなぁ……」
 小さな頃はあの神社で暮らしてみたいという気持ちから、神主という職業を知って憧れたものだが。成長して知識を得ていく内に、どうにも簡単な話ではないということは予測出来た。
 それに何より、神主になるのが本当の目的かどうかと突き詰めて考えていくとどうにも首が傾いた。
「こうしている今は農家もいいかなって思うけど、大変そうなんだよな」
 中学で園芸部に入ってからは土いじりも楽しいと思うようになった。自分が世話をした野菜がすくすく育ち、実を付けて、それを食べられるというのは充実感がある。
 だがそれを商売にするのもやはり苦労があるのだと、台風などの天候の変化によって大きく収穫を左右される農家のニュースを見ていると悩む。
「こうしてすごく小さな畑を世話している内でも、出来が良い奴、悪いやつ色々出てくるじゃん。商売にするなら、出来の良いやつだけを作らなきゃお金にならない。雨続きだとちゃんと育たなくて味は落ちるし、だからって晴ればっかりでも畑は乾くし。虫とか、農薬とか、なんか色々考えなきゃいけない」
「まあ、そうだな」
 あれこれとりとめなく喋っている葵を、ノアは大人しく聞いてくれている。
 こうして葵が考え事をしながら、思ったことをそのまま口から出していてもノアは呆れない。
 飽きもせずにしっかり耳を傾けてくれる。
 毒舌で言いたい放題ズバズバ突き刺してくるけれど、ノアは葵が喋っているのはおそらく好きなのだ。だからこうして相づちを打ちながら、たまに視線で話の先を促す。
(たぶん、こいつは俺のことを気に入ってるんだろうな)
 だから何を言われても、あまり怒れないのかも知れない。
 



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