春の終わりを待って はじまり 7 「変質者に追いかけられて神社に逃げ込みました。変質者二人は俺たちを捜して神社の中をうろうろしていてたから、ずっと隠れてました。夜になっても変質者たちは神社から離れなかったから、俺たちは帰れなくて。見付かった時には暴力を振るわれました。とても怖かった」 ノアはそう語りながら、怯えたように自分の母にべったりとくっついた。ノアの母は我が子を抱き締めて泣いていた。 どうやら両家の親たちはいつまでも帰ってこない息子を心配して捜し回っていたらしい。近所の人たちも手伝ってくれて、あちこち見回っていたそうだ。 この神社にも顔を出したそうだが、その時は誰の姿も見えなかったと言っていた。子どもも、大人も誰もいなかったはずだと。 (俺とノアはお社にいたはずなんだけど) 暗がりだったので見逃されていたのだろうか。 葵が怪我をしている上に、ノアが変質者の話をしたところで両親は警察に通報した。同時に救急車も呼んでは、痛みを訴える葵とそばにいたノアも運ばれた。 殴られた葵の頬はすぐに赤黒く腫れ、熱を持ってはズキズキと疼いた。首の痛みはしばらくすると軽くなったけれど、後々痛みが戻ってくるだろうとシップを貼って貰った。 ノアは男に掴まれた手首に手形の痣がくっきりと付いていた。内出血をしている様は痛そうだったが、本人は「平気」とぎこちなく笑っていた。 警察は変質者の一人をすぐに捕まえた。近所をうろついていたらしい。 どうやら様子がおかしいようで、警察に声をかけられると訳の分からないことを必死に訴え最後には「助けてくれ」と叫んだそうだ。 変質者はもう一人いるはずだが、それに関しては「得体の知れない黒いものに喰われた!」と主張するばかりだという。 残された変質者の捜索が続いているが足取りが途切れていると、近所の人が怖がっていた。 「怖かったでしょう。変質者に追いかけられながら隠れているなんて」 治療を終えて病院から家に帰ってくると、母は葵の頬を見ては痛々しいと言わんばかりの表情で語りかけてくる。 まだ瞳は赤くて、いつ涙が浮かんでくるか気が気でない。 しかし隠れていたというのは「夜遅くまであんなところにいるから危ない目に遭ったんだ」という大人たちの注意から逃れるため、ノアがその場で作った嘘だ。 あまりにも上手に嘘をつくので唖然としてしまった。 あんなに可愛い顔をしているのに、中身はかなり悪い子だ。 「……怖かったけど、でも、ノアがいたから」 変質者たちから隠れはしなかったけれど、逃げ出そうとしたのは本当だ。 そしてその時、恐ろしさで膝が笑ってしまったのも、初めてのことだった。 だが泣き出さず、ちゃんと動き出せたのは一人ではなかったからだ。繋いでいたノアの手の感触が葵を支えてくれていた。 「一人じゃなくて良かったわね。ノア君もあんなことがあったのにしっかりしてて。アパートが倒壊した時も近くにいて怖かったはずなのに、きちんと大人を呼びに行って葵を助けてくれて」 勇気があるわ、なんて母は感心している。 だがアパートが壊れたのはノアが仕掛けたのではないかと葵は予測していた。怖いも何もあったものではない。 (でもあの時、変質者に立ち向かったとしたら、怖かっただろうな) 葵があのよく分からないものに包まれた後、視界は黒いものでぴったり塞がれただけでなく、黒いものは微かに音を立てていた。 何かが内側を流れている。まるで人間の脈のようなそれが四方八方から響いては葵の聴覚を誤魔化していた。 外側で何が行われているのか、一切聞こえていなかった。 ノアが自分のように暴力を振るわれているのではないか、不安で精一杯叫んでいたのに、ふつりと意識は突然落ちていた。 起きた時にノアが目立った怪我もなく近くにいてくれてどれだけほっとしたか。 「でもよくあんな小さな神社で見付からずに隠れていられたわね。やっぱり、あそこにはちゃんと神様がいたのかも」 「十年前に焼けたのに?」 「だからよ。十年前にお社が焼けてからこの辺りでは良くないことがたくさん起こったの。事故や事件だけじゃなくて、自然災害もあってね。それが神社が焼けてから急にたくさん起こったから、みんな神社の神様がこの辺りを守ってくれていたんだと気が付いて。急いでお社を新しくして、神社も綺麗にお掃除したのよ」 葵が知っているのはぽつんと建てられた小さな社と、手を洗う小さな小屋のような手水舎、広くない境内にぽんぽんと植えられている若い木々くらいだ。他の神社と比べて特別変わっているところはない。 ただ真新しいというだけだ。 「最近はちゃんと落ち着いたもの。きっと神様もお休みになったのね」 「ふぅん」 母が語る神様というものはよく分からない。目に見えない何かの存在を容易に飲み込めるほど、世の中の仕組みなんて理解していなかったからだ。 けれど母が親しみと敬意を込めて神様を信じているのは、察せられたので。そういうものがいるのだろう、と漠然とした気持ちで聞いていた。 「葵は知らないけど、昔は神社でお祭りだけじゃなくてお花見もしていたのよ」 「お花見?あそこには桜がないのに?」 「昔はあったのよ、大きな桜の木が。提灯をぶら下げてその下でお花見をして。夏はお祭り、秋は秋祭りで飾り付けもしたわ。今はまだ若くて細い木ばかりだから、少し寂しいわね」 夏祭りも秋祭りも神社の近くでやっているけれど、神社の前と参道に数件並んでいるくらいで。境内の飾り付けはさほど盛り上がっていない。 まして花見なんて行われていたとは思えない。 桜は一本も植えられておらず、緑の木々ばかりだ。季節の移ろいも何もあったものではない。 「つまんないね」 「ねえ。せめて桜を植えればいいのに」 「公園にたくさん植わってるからじゃない?お花見なら公園でするから」 毎年家族や友達と公園でお花見をしている。公園に植わっている白やピンクの桜たちの下でお弁当を広げるのは、毎年の楽しみだ。 神社の境内では桜を植えてもせいぜい二、三本だろうが、公園ならば広さがあり十数本植わっている。お花見をするならそっちの方が面白いだろう。 「……そうだね」 母は苦笑していた。少しでも神社が華やかになればいいのにと思っているのかも知れない。 (お母さんは神社が好きなんだ) それは葵もそうだ。理由はなくとも、あそこに足を運んでしまう。 好きなものが似ているのは、血は繋がっていないけれど親子だからだろうか。そう思うと口元がもぞりとしてしまう。 「神社の神様が俺たちを隠してくれていたんじゃないかって言われたんだけど」 朝、家まで迎えに来てくれたノアにそう言うと、ノアは大人びた態度で肩をすくめた。 「もしそうなら、最後まで無事に逃がして欲しいものだな。そうすればおまえは殴られもしなかっただろうに」 葵の頬にはガーゼが貼られている。腫れはまだ治まっていない上に、肌が黄色や紫色の斑に変色しているのでクラスメイトの目から隠すためでもあった。 顔半分近くを覆っているそのガーゼを見て、ノアは痛そうな表情を少しだけ見せた。 「ノアはあの時、何をしたの?ノアがしたんでしょう?」 神社の神様がしたと言われるより、それは真実味があった。ノアはきっとあの黒いもので何かをしたのだ。葵を包んで守ってくれた。 「あの男の人はどうしたの?」 見付からないままのあの男はどこにいったのか。 神社の参道横、葵が倒れていた近くは土が掘り起こされたような跡があった。 だがあの場には土を掘り起こすような道具もなければ、ノアが一人で大人を埋められるわけもない。 警察の人が一応念のためとその土を掘ったらしいけれど、当然ながら人間など出てこなかったそうだ。 あそこにいたのは、何かを見ていたのはノアだけだ。 「さあ?」 あの夜と同じだ。知っているはずなのに、ノアは答えない。 「知らない」と言わないのは嘘はつかないと決めているからか。それとも知らないと言ったところで、葵が反発するのが目に見えているからか。 大人が子どもに知らないことを隠すため、その場限りの嘘をついたり、曖昧に濁したりする言葉とは違う。 触れてはいけない何かを含んでいた。 ノアは自分とは違うものを見て、違うものを持っている。 「……俺を守るために、そうしてくれたの?」 何を抱えているかは教えてくれない。だがもしノアが自分を守ろうとして、何か無茶をしたならば、それは嫌だなと思った。 「自分を守るためだよ。俺だって危険だった。守って貰うために俺が何かしたと思うなら、思い上がりだ」 「そっか。ノアも連れて行かれそうになってたもんね。手首はまだ痛い?」 そうだ、葵が殴られている間。ノアはもう一人の男に引っ張られてどこかに連れていかれるところだった。 ノアは可愛いから誘拐されるところだったのだろう。 そう思うとぞっとする。無事で良かったけれど、男に掴まれた手首の痣はちゃんと消えただろうか。 「痛くない。おまえも早く治せ。見てる方が痛い」 「うん」 学校が近くなり、クラスメイトが片手を振って挨拶をしてくる。 それに「おはよう」と笑顔で返しているノアは、子どもらしい笑顔を浮かべていた。 初対面の時にも思ったように、それはとても可愛い。天使みたいだと、今でも思う。 だが好きだなと思ったのは、素っ気ないながら葵を心配してくれた、一分前のノアの横顔だった。 了 |