春の終わりを待って  はじまり 6




 夕暮れの神社の社で、眠りこけている子どもを二人見付けた時は心が躍った。今はまだ神社の前には人通りが僅かでもある。だが夜が更けるとこの道を通る人が激減するのは分かっていた。
 近くに民家が数軒、仕事帰りの人々が無事に帰宅するとコンビニなど深夜まで営業している店はない。まして公園と神社という、夜とは無縁の施設ばかりの環境では、さぞかし夜は静かで、閉鎖的だろう。
 いつ目覚めるか。ちらちらと気にしていた。
 もし目覚めなければ、もし夜が深くなれば。
 その期待に応えるように、子ども二人は夜二十一時を回ってもそこにいた。
(あの子どもにしよう)
 俺は共犯者を呼んでは、子ども二人を遠くから見せた。小学生くらいの男児と女児、どちらも幼く丁度良い年齢だった。
「あれくらいが一番興奮する」
 そう言った共犯者に頷いていた。
 いざ実行に移す直前に、子どもは起きてしまったけれどもう遅い。
 神社の参道はさして広くない上に、出口らしきものは正面の一つだけ。そこを塞いでしまえば逃げ場はない。
 俺たちが知らない大人であり、何か良くないことをしようと企んでいることを敏感に察したらしい子ども二人はすぐに逃げようとした。
 だが子どもの足ではすぐに捕まえられる。
 捕まえるのは攫うのも、その先も簡単なことだ。
 女の子の顔を見て、共犯者が小さく「やった」と零したのが聞こえる。女の子はハーフなのだろう、人形のように可愛い顔をしていた。
「大当たりだ」
 それに同意するが、男の子の方が女の子を逃がそうとする。
 ナイト気取りなのか、こちらも逃がすわけにはいかないので、軽く手首を掴んだのだが。まるで犬のように噛み付いてきた。
「いった、てめえ!」
 子どもといえども本気で噛み付かれれば痛い。
 皮膚が破けたのが感覚で分かる。怪我をしたと分かると一瞬で頭に血が上り、かっとなって拳が出ていた。
 小さな子どもの身体は、頬を殴っただけで軽く飛んでしまう。
「うわ、血が出てやがる」
 子どもの歯形がきっちりついた手には、じわりと血が滲み始めた。ズキズキとする痛みに怒りが込み上げては、舌打ちをした。
「何しやがる!このガキ!」
 子どもは地面に倒れたままろくに動かない。
 殴られたショックなのか。それとも倒れた時に頭でも打ったのか。どちらでも良い、どうせこの後は動かなくするつもりだったのだから。
 ぬるりと血が溢れては滴り落ちるのを感じた。痛みと共にそれが怒りを膨れ上がらせる。苛立ちのままに子どもを蹴り上げようとした。
 再び軽く吹っ飛ぶだろうその身体に、死ぬかもなと思ったけれど止まらない。
「は?」
 背中を丸めて健気にも自分を守ろうとした子どもの前に、黒い何かが這い出てきた。巨大な虫が地中からいきなり出てきたのかと思ったが、その黒い何かはずるりと頭をもたげた。
「へ、蛇!?」
 人間の腕ほどの太さのある蛇が子どもを庇うようにあられたのか。だがその蛇には頭がない。それどころか子どもの近くからまた一つ、二つと蛇の胴体のようなものが生み出されてくる。
「なん、なんだこれ!」
 それはあっという間に子どもを包み込んでしまう。
 生き物に見えないのに、明らかに何かの意志を持っている。
 うねり、脈動しているそれに、共犯者が悲鳴を上げた。
「あ、おい!」
 女の子の肩を掴んで連れて行こうとしていたはずだ。だがこの異様な光景に怖じ気づいたらしい、女の子を突き飛ばしては一人で一目散に参道を戻ろうとしている。
 遠ざかる背中に、さすがにまずいと分かる。
 これは異常だ。
 遅ればせながら恐怖が襲いかかってきては、膝が笑いそうになる。だがかろうじて一歩後ろに下がると、それを合図に身体は本能に従って弾かれるように逃げ出そうとした。
「う、わっ!なんだ!」
 だが駆け出した途端に何かに足を取られて転倒した。見ると足首には黒い何かが巻き付いていた。しっかりと足首を掴む、指のようにも見える。
 おぞましいそれに「ひっ」と喉から絞り出すような悲鳴が零れた。
(なんだこれ!なんなんだよ!」
 膝を突いたまま、それでも掴まれている足首を懸命に動かして抜け出そうとする。けれど足を動かせば動かすほど、それは絡み付いてくる。
 足首どころか首にまで巻き付いてきては、軽く締め付けられて「嫌だ!」と情けない声が響き渡った。
「うるさいな」
 冷ややかな声が頭上から降ってくる。見上げると女の子が俺を見下ろしていた。
 友達が殴り倒され、知らない男に連れ去られようとしていた。
 その上、目の前で何か黒いものに人間が襲われているのに、一切驚かない。
 それどころか静かに怒っているのが、その大きな瞳が不愉快そうに細められたことから分かる。
(どうしてこいつはこんなにも普通なんだ!)
 人形のように整った容貌は、男が藻掻くのが不快だとばかりに鼻白んだ。その表情に合わせるように、黒い何かが幾重にも纏わり付いてくる。
「おまえなんなんだ!まさか、おまえが!」
「喋るな。おまえにそんな権利は無い。おまえが喋るだけで酸素が減るだろう。その罪深さも分からないような生き物が、ここに存在している価値はない」
 見た目からは想像も付かないほどぞっとする冷酷な言い方だ。
 もしこの異常な状態をこの女の子が作り出しているとすれば、この人間は何者だ。
(化け物!?)
 捕食者が喰い殺される側に回った。そう理解し血の気が引く。
 だが足掻こうとる身体には黒い縄で拘束されている。身じろぎをすればするだけ締め付けはきつくなる。
「誰か」
 助けてくれと叫ぼうとした。けれど女の子がそれに眉をひそめると、大きく空いた口の中に黒い何かが突っ込まれた。
「んぐ、ぐぅ、ん」
 強引に口の中に入り、喉を通り、何かが胃へと落ちていく。むせかえるほど濃い土の匂いに侵食される。得体の知れないそれは砂利や小石でざらざらとしており、喉を傷付けながら胃の中でぐるりとうごめいた。
(なんだこれは!嫌だ!気持ちが悪い!止めてくれ!)
 わめきたくとも口は黒いそれらで満杯になっている。
 しかもそれは胃の中で暴れ始める。内臓が破られる恐怖に震えていると、女の子が思いきり足を上げたのが見えた。
「んぐ、くぐぁ」
「忘れずに返しておく。本来ならもっと力を込めて頬骨や顎でも砕いておきたかったが、この身体では難しい。ままならないものだな」
 女の子が俺の顔面を思いっきり踏みつけてくる。頬や鼻に激痛が走る。鼻が折れて変形したかも知れない。
 もしかしてこのまま女の子になぶられるのか。
 そんな本来ならばあり得ない想像が、現実のように迫ってくる。
 けれど俺の予想を裏切り女の子は後ろへと下がった。
「よりによってここで、この蛮行だ。どこまでも愚かなんだ。だから嫌なんだおまえのような生き物は。ことごとく死に絶えれば良いのに。本当にゴミ以下だよ」
 蔑む女の子は見るのもおぞましいと言わんばかりに目をそらした。そして小さく細い指が見えない何かを引き寄せた。
(やっぱり、このガキが!)
 何かしている。
 そう理解した俺の視界に黒く細長いものがひゅんと飛んできた。先端が尖っているそれが眼前に来ては、スピードを落とさずそのまま眼球に刺さった。
「が、ぁ!ん、ぐ、んんん、ぅぐ!」
(熱い熱い熱い!)
 痛みも分からない。ただひたすらに熱く、恐ろしい。目にあんなものが刺さったという現実にパニックになってくぐもった絶叫を上げる。
(助けてくれ!助けて誰か!嫌だ死にたくない死にたくない死にたくない!)
 死にたくない、声にならない懇願をする俺の首に巻き付いた何かが、締め付けをきつくした。気道を圧迫されて息苦しさを覚えるはずだった。だがそんな段階を飛び越えて、骨が折れる嫌な音が耳の奥でこだました。



(……痛い)
 右頬がズキズキする。鈍い痛みで目が覚めた。瞼を開けると視界いっぱいに薄暗い地面が映って驚かされる。
「えっ」
 声を上げて起き上がると、傍らにいたらしいノアがしゃがみ込んで葵の顔を覗き込んでくる。
「具合は?」
 声音はいつもと違って弱々しい。心配してくれているのが分かる。
 ノアでもこんな風に不安になることがあるのかと、意外だった。
「まだ半分気絶しているのか?もしくは喋れない?口の中が切れているのか。口を開けてくれ」
「あ……喋れる。痛いけど……」
 喋ると確かに頬と唇などが痛い。口の中にも血の味がするので、ノアが言う通り切れているのかも知れない。
 殴られてもいないのに首も痛い。傾げようとしたが軋むような痛みがあって、すぐに硬直した。
 手で触っても頬のような痛みはないのに、どうしてだろう。
「殴られて首がむち打ちみたいになってるんだろう。あまり動かさない方がいい。俺のことに気にせずに逃げれば良かっただろう」
「出来ないよ……」
 友達を置いて一人だけ逃げるなんて出来るわけがない。そんな卑怯者にはなりたくない。
 殴られたのは嫌だけれど、後悔はしていない。
「……馬鹿だな」
 それまでノアに馬鹿だと言われたことは何度もあったけれど、その時の馬鹿はどことなく優しかった。
「あの男の人は?」
 周りには誰もいない。自分を殴った男もノアを連れ去ろうしていた人もどこにも見当たらずほっとした。
「逃げた」
「どうして?あ、俺、なんか変な黒いのに纏わり付かれて、なんか真っ暗になったんだけど!あれって俺とノアが初めて逢った時にも出てこなかった?まさかノアがなんかしたの?」
「さあ?」
 知らないとばかりにノアは素っ気ない態度に変わる。そして葵の手を軽く引いた。
 そちらは男に掴まれた側で、手首にはくっきりと手形が付いていた。
「っ」
「…………」
 葵が痛がるとノアはきっと目尻を釣り上げた。それは威嚇をする猫のようだが、睨み付ける先は手首の痣だ。
(怒ってる)
 だがノアは葵の手首にある痣をそっと撫でた。慈しむようなその手付きは、母が葵を撫でてくれる時は同じだった。
 本当は優しい子なのかも知れない。
(怒りっぽいけど)
 仲良くなれるだろうか。
 そう淡い期待を抱いていると、神社に面した道路から何人かの大人の声が聞こえてきた。
 そして遠くから母と父の声も混ざっている。ノアの名前も呼ばれている、聞いたことのある高く澄んだ声はノアの母のものだろう。
「あ、ヤバイ。俺たち探されてる。早く帰らなきゃ。今何時!?」
 お母さんに叱られる!と慌てて参道を走って神社から出ようとすると、逆に母が鳥居をくぐってくる。そして葵の姿を見付けると、すぐさま駆け寄ってきてくれた。
「葵!葵!どうして帰ってこないの!探したんだから!心配したんだからね!」
 必死に呼びかけてくれる母の腕に真っ直ぐ走った。
 あたたかく柔らかなその胸に抱かれた瞬間、どっと何かが溢れ出した。それまで我慢していた感覚なんてなかったのに、母のぬくもりを感じた途端に、ふっつりと糸が切れてしまった。
 大声を上げて泣き出してしまった葵を、母は抱き締めたまま頭を撫でてくれた。それはやはりノアの小さな手と似ていた。




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