春の終わりを待って  はじまり 5




(またこの夢だ)
 身体がアイスクリームのように溶けてあたたかな液体に揺蕩っていく。脈打つぬくもりが、身体の外側、そして内側にも流れていく。
 瞼越しに太陽の光がたくさん降り注いでいる。キラキラとした太陽の粒子に喜びを歌い、心が弾んでは気持ちが踊り出す。かと思えばしばらくすると穏やかな静けさにすっぽりと包み込まれて呼吸は整い安堵した。
 必要なものが全て揃っていた。飢えも苦しみもない、あらゆるものに祝福されているような時間。
(でも終わる)
 激痛と共に目覚めてしまう。
 そう分かっているからこそ、希望に身を沈められなかった。裏切られると知っているからこそ、その時の覚悟ばかり気になる。
 しかしこの夢は、呆気なく訪れる悲劇のような幕引きが来ない。それどころか心地良さが更に広がっては自身の身体も心も豊かに膨らんでいくようだった。
(どうして?)
 いつもと違う。
 大きな器に移されて、高く広く自身の感覚が流れて出す。気持ち良さが増えていくのに、懐かしさを覚えた。
(知ってる)
 この心地良さも多幸感も、いつか感じていたものだ。
 いつもの夢とは違うのに、どうしてこんなにも『しっている』のか。
 不思議だが、当然だという気もする。
 相反する思考も、次第に混ざり合っては曖昧に散っていく。
 だが一つだけ確かなものがあった。
 これは今だけだ。もうすぐ終わる。
 確実に、あと少し、ほらもうすぐ、この瞬間にも、全部が台無しになって、全部無かったことにされる。
(寂しい)
 もっとここにいたい。
 だってこんなにも満たされている。全てがある。
 ここには。
(寂しいよ。寂しい。さみしい)
 涙が込み上げてくる。
 こんなにも満たされて、喜びと幸せに浸っているのに。
 寂しさが背中に張り付いてしまった。
 それはこの身体を奪い尽くしてしまう。
「……しい」
 寂しいよ。
 そう呟いて、ぱちりと目が開いた。
 視界いっぱいに、ノアの可愛らしい顔が映り込むんでドキリとする。
 大きく丸い瞳はじっと葵を見下ろしている。
 辺りは薄暗く、目をこらさなければ何も見えなくなってしまいそうなのに、ノアだけはくっきりと浮かび上がっている。
「思い出した?」
 問いかけは穏やかだった。それは夢の中で感じていたものに似ている。
 自分が識っているものであり、それが答えだと思う。
 だが果たしてその感覚は何なのかと問われても、言葉には出来ない。
「……分かんない」
 素直な感想を述べると、ノアの瞳が釣り上がった。
 怒鳴りつけられる直前の表情だ。「あ、ヤバイ」と呟いた時にはもう手遅れだった。
「これだけやってもまだ思い出さないのか!おまえはどれだけ失っている!底抜けに愚かで救いようが無い!こんなにも馬鹿だとは思わなかった!信じがたい!」
 激怒しているノアに、葵は反射的に耳を塞いだ。至近距離でこの声量を浴びるのは辛い。
 あわあわと身体を起こした。
 どうやら社の真ん前、五段ほどの短い階段の一番上に座っていたノアに膝枕をして貰っていたらしい。
 何時間ここにいたのか、どっぷりと暮れている空は夕暮れをとうに回ってしまっている。
「ヤバっ!」
 午後六時には家に帰らなければいけないのに、今は何時だろう。
 境内には時計の類いはなく、いつもならば父に買って貰った腕時計をしているのだが、今日に限って着け忘れてしまっていた。
「帰らなきゃ。最近不審者がうろうろしているから、子どもは夜に出歩いちゃいけないって言われてるんだった」
 まだ怒って何かを怒鳴ってくるノアを遮ってそう訴える。
 数日前から子どもに変な声をかける男が目撃されているらしい。悪戯目的ではないかと、母が近所の人たちと立ち話をしていた。
 人気の無いところや、夜遅くに一人で出歩いてはいけない。
 学校でも今日注意されたばかりだ。
 今は二人でいるけれど、夜も遅くなっている。
 まして不審者は可愛い子を狙ってくるらしい。ノアなんてまさに危ない。
「帰ろう!」
「……仕方がない」
 夜も遅いのはノアだって分かっているだろう。渋々腰を上げた。
 駆け足で階段を下りると、出入り口である鳥居側から誰かが歩いてくる。背の高い、がっしりとした背格好から男だろうと思われる二人組だ。
(こんな時間に?)
 参拝に来るには遅い。嫌な予感が胸をざわつかせる。
 男の視界に入らないように参道から少し外れて、さっさと走って出ていこうとした。
 境内にある少ない街灯に男たちが近付いては姿がはっきり見えた。黒ずくめで目指し帽を被っている。それはニュースなどで見かける「危ない人」たちがしている服装そのままだ。
「あれ、起きちゃったか」
「本当だ。ちょっと遅かったな」
 にやにやとべたつく声に胸がざわついた。嫌な予感が背筋を這いずり回ってはごくりと息を呑む。
 目を合わせてはいけない。
 顔を逸らしてノアの手をぎゅっと握った。自分より小さなその手に、無性に守らなければいけないと感じた。
 全力で走ろうとするのに、男の一人が軽く駆け寄ってきては葵の行く手を塞いでくる。つんのめりそうになるのを、ぎりぎりのところで立ち止まった。
 男は背が高く、木々を見上げるようにして視線を上げると分厚い唇がにぃと口角を上げた。
 いやらしい、ぞっとするような笑い方だ。そんな笑みを浮かべる人は、これまで葵の周囲にはいなかった。
「どこにいくの。さっきまであそこで仲良くお昼寝していただろ」
「帰るんです」
「こんな夜遅くまで暗いところにいちゃいけないよ。悪い子だね。お母さんに夜遅くまで遊んでちゃいけないって言われなかった?」
「言われたから、もう帰るんです」
 男を横を通り過ぎようとした。けれど男は葵の手をぎゅっと握る。
「離してください!止めて!」
「お兄さんに捕まっちゃったね。どうしよう。帰して貰えないね〜」
 どうしようかぁなんて間延びした声で男は葵の手を握る力を強めた。痛みが走る。
 ノアと手を繋いでいる側ではないのが小さな救いだろう。
 葵はノアを手を離しては、男から逃れようとやたらと腕を振った。だが男の指は外れない、それどころか一層力が強まった。
「痛い!離して!」
「これだけで痛いの?嘘だろ〜、ちょっとしか力を入れてないのに?もっとしっかり握ってあげようか」
 恐ろしいことを言う男に、葵は恐怖で立ち竦みそうになる。けれどもう一人の男がノアに近付いて両手を伸ばしたのが見えて、喉が震えた。
「ノア逃げて!捕まっちゃダメ!」
 男の手に捕まれば自分のように逃げられなくなる。
 叫ぶともう一人の男がノアに飛びかかろうとした。
(いけない!)
 ノアが襲われる。とっさに自分を掴んでいる男の手に噛み付いた。
 力一杯歯を立てると手の肉の固さと皮膚を破る確かな感触があった。気味の悪い歯ごたえに吐き気が込み上げるが、それは頭上から雷のように突き刺さった罵声に打ち消された。
「いった、てめえ!クソガキが!」
「っい、ぁ……」
 右側の頬に衝撃が走った。頭が揺れては地面に叩き付けられる。ジャリと小石がこめかみにめり込む。
 だが殴られた頬の激痛と熱さに上書きされる。
(痛い!頭が、ぐらぐらする)
 殴られた頬を手で押さえようとするけれど、少しでも動くと強烈な痛みと目眩に襲われる。男たちが何か怒鳴り合っているが聞こえない。耳が詰まって音が入って来ない。
(ノア……!)
 このままだとノアまで殴られてしまう。
 目だけでノアを見上げると、もう一人の男に手首を掴まれて呆然と立っているようだった。
「にげて」
 視界に男の靴が迫ってくるのが見える。今度は倒れたところを蹴られるのだ、そう分かって身構える。
(もう痛いのはやだな)
 嫌だ、と願う葵の視界を真っ暗なものが覆った。




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