春の終わりを待って  はじまり 4




 自分が生まれる前の話を、葵は他人事のように口にする。神社を見渡したところで記憶も実感もないのだから当然だろう。
 たとえここから自分が始まったと言われても、葵の目には映らない。
「お母さんと一人目のお父さんは出会ってすぐに結婚して、俺が生まれた。お母さんは俺を産んだときに死んだんだって」
 昔はたくさんのお母さんが赤ちゃんを産む時に亡くなっていた。医療はあれから随分進歩した、環境も格段に良くなった。それでも出産は命懸けなのだと母は教えてくれた。
「一人目のお父さんは、一人で俺を育てるのは無理だからって、今のお父さんに俺をあげたんだ。俺を育ててくれているお父さんは、一人目のお父さんのお兄ちゃんだって」
 妻を亡くした一人目の父はまだ大学を卒業したばかりで、一人で赤ちゃんの面倒を見るのは難しかったらしい。
 就職して間もなかったため、お金も時間もなかったそうだ。
 だけどそれは言い訳で、一人で子どもを育てるのが嫌だったんだろうと周囲の大人たちは噂していた。
「お母さんは子どもが欲しかったけど、出来なかったから丁度良かった。なんて言ってる。俺が来てくれて嬉しいって」
 それが母親に死なれ、父親に捨てられた子どもを哀れに思って告げた、口先だけの慰めだったならきっと惨めだっただろう。
 けれど母は心からそう伝えてくれた。
 抱き締めてくれる体温と、声音に滲む喜色は嘘偽りがない。
 まして気が付けば溢れるほどの愛情に包まれて育てられていたのだ。
 疑いようもなかった。
「一人目のお父さんは、今どこに?」
「俺をお父さんとお母さんにあげた一年後に、交通事故に遭って亡くなった」
 なので葵は一人目の父親を見たことがない。家には両親が結婚した時の写真が飾られており、親戚たちが集合した中に一人目の父も映っていた。
 育ててくれている父とはあまり似ていない、少し陰のある顔だった。
「おまえが、自分は両親の子どもじゃないと知ったのはいつ?」
 葵の話を聞いてもノアは表情一つ変えない。可哀想な子という同情はしないらしい。それが葵にとっては楽だった。
 この話を知るとみんな気まずそうに目をそらしては、話題を変えようとするか、もしくは大袈裟に哀しげに振る舞う。
 葵は哀しくないのに、どうして他人ばかり哀しそうにするのか分からない。
 けれどそんなことないと笑えば、更に可哀想だと無駄な同情を重ねられる。
 逆に怒ると生まれがおかしいから、そんな癇癪を起こす変な子どもに育ったのだと叱られる。
 そして変な子どもだと大人たちが言う度に、母が心配そうに葵を見詰める。葵が悪く言われる度に、傷付くのは母だった。
「俺はずっと前から自分はお父さんとお母さんの子どもじゃないって知ってたよ。俺を産んだお母さんと一人目のお父さんはここで出会ったってさっき言ったけど。みんなは一人目のお父さんが、俺を産んだお母さんを拾ったって言ってたから。俺を産んだお母さんは、記憶喪失みたいなものだったんだ。自分の名前くらいしか、覚えてなかった」
「名前しか分からない女の人と、一人目のお父さんは、それでも出会ってすぐに結婚したのか」
「一目惚れだったんだろうって。だけど周りの人たちは、そんな変な女といきなり結婚するなんてどうかしてるって怒ってたみたい」
 今のお父さんとお母さんも、はっきりとは言わなかったけれど。一人目のお父さんの結婚には反対していたんだと思う。そんな様子だった。
「胎を使いたかっただけだろう」
「はらをつかう?」
 ノアの言っている内容が何一つ分からなくて、さすがに聞き返す。だがノアは首を振った。
「言い過ぎた。それで、記憶のない女の人と結婚した一人目のお父さんは、周りから反対されていて、近所では噂になったというわけか。そして産まれてきたおまえの耳にも入るくらいに噂はまだ続いていると」
「俺までおかしい人間にならないように、見張ってるんだって」
 意地の悪そうなおばさんはそう言っていた。
 可哀想な子という目で見てこない人は、大抵そんな風に葵に嫌な目を向けてくる。
 葵はその目が大嫌いだった。
 けれど嫌いだと言い放てば母が怒られる。躾けが出来ていない子だと文句を言われる。
 だから黙って我慢するしかなかった。
「俺を産んだお母さんが記憶喪失だったから、俺も何か忘れているの?」
 忘れていると言われても自分の記憶には、それらしい感覚はない。だからもっと昔の、自分が産まれる前の何かが関係あるのかも知れない。
 まさかノアがそんな昔の話を知っているとは思えなかったけれど、どうしても心当たりがなかったのだ。
「違う。おまえが忘れているものは、そんなものじゃない」
「じゃあ分からないよ。ノアは何を、どうして覚えているの」
 自分がおかしいのではなく、ノアがおかしいのではないか。
 そう指摘するとノアは腕を組んで葵を見下ろしてくる。しかし怒鳴り声も文句も一向に聞こえてこない。
 それはもしかして正解だったのかも知れない。
「ノアのお母さんは、産んでくれたお母さん?」
 あのお城のような家に住んでいるノアのお母さんは綺麗で優しい人だった。のんびりとしていて、優等生を演じているノアのお母さんだと言われれば、そうだろうなと思う。
 葵にも「ノアと仲良くしてあげてね」と両手を取ってお願いしてくれる。だが心の中で、それはノアに言って欲しいなと思っていた。
「生みの親だ。だけど母親は俺を産んだ際に死にかけた。俺も同様。母子ともにかなり危険な状況だったらしい」
「赤ちゃんを産むのは命懸けだってお母さんが言ってた」
「それも理由として考えられるが、通常より負荷が大きかったという可能性もある。無理矢理人間の器に詰め込んだようなものかも知れない」
「……俺が、お母さんを殺したの?」
 自分を産んだから母は死んだのでないか。そんな疑問はずっとわだかまっていた。
 誰に訊いてもそんなことはないと否定するけれど。そこには哀れがいつもあったから。
 だから子どもだと思って優しい嘘をついて騙してくれているのではないか。
 何でもズバズバと、それこそ刃のように言葉を刺してくるノアならば、誤魔化すようなことは言わないだろう。
 傷付けられると思いながら尋ねるが、ノアは「さあ」と曖昧な返事をした。
「分からない。それでも殺したというのは正しくはないと思うがな。殺す必要もなかったはずだ。効率も悪い。あくまでも結果論だろう」
「俺が家族を不幸にするとか、ないよね?」
 産んでくれた母を死なせてしまったような子どもは、育ててくれている両親も何か酷い目に遭わせるのではないか。
 万が一、考えたくもないけれど、死んでしまったら、その時はどうすれば良い。
(俺さえいなければ)
 少なくとも不安が減るのではないか。
 膨らみ続ける恐ろしさに、ノアは葵に顔を寄せた。急に距離を詰められたことに怖じ気づいて身体を後ろに引く。
「親は好き?」
「……うん、好きだよ」
 お父さんお母さん、大好き。
 そう素直に言うには照れくさい。叱られて反抗したことも、言い分を聞いて貰えなくて理不尽だと思ったことも多々ある。親と顔を合わせたくなくて家出をしたことだってある。
 だが家族に対して嫌いだなんて、口が裂けても言えなかった。言いたくなかった。
 本当の子どもじゃないのに、本当の子どもみたいに大切にしてくれてありがとうと、こうしている今も思っている。
「……そうだろうな」
 ノアは目をそらしてそう呟いた。
 初めて、ノアは葵に対して納得を見せたようだった。
 それまで理解出来ない、どうしてだと詰め寄ってきたのに。何かが分かったらしい。
(何が分かったんだろう)
 両親を好きだという葵の気持ちの何が、理解に繋がったのか。葵にとっては逆に謎だった。
「だけど、俺はそれに引き下がるわけにはいかない。諦めてなんてやらない」
 そらした瞳を再び葵に向ける。
 苛立ちや怒り、冷ややかさがずっと滲んでいたノアの瞳からそれらが消えている。代わりに何か深いものが見え隠れている。
 あどけないはずの子どもの瞳に、仄暗い何かの含みが広がっていく。青空に墨が落とされ、じわじわと暗がりが染み込んでは星一つない真っ暗な夜が訪れたようだ。
 自分の知っている、太陽に照らされ育まれている世界が崩れていく。足元から何かに絡め取られて地面に沈められる。
 身震いをした。気持ち悪さと恐ろしさが内臓を締め上げて、吐き気が込み上げる。
(怖い怖いこわい!)
 どこかに落とされる。
 変えられてしまう。変質させられる。
 自分が砕け散って、別のものに奪い尽くされる。
(嫌だ!いや!俺は、俺はおれは!)
 違うと叫び逃げ出したかった。
 けれどノアに腕を掴まれてはその場に固定される。
 ぐいと顔を近付けて来たノアは、葵の瞳を覗き込む。
 それはそのまま葵がノアの、恐怖の固まりである瞳を直視する羽目になる。
「ここなら、分かるだろう」
 はっきりとそう、力強く告げたノアの瞳は明るい茶色をしていたはずだ。
 けれどその茶色が淡く色を薄めては、別の彩りを混ぜ始めた。
 それが何の色なのか、脳裏に浮かんだ途端に強制的に意識は落ちた。




next 



TOP