春の終わりを待って はじまり 3 新学期から新しく入って来たノアは、とても可愛い見た目だけでなく日本人とイギリス人のハーフという点でもクラスメイトの興味を刺激したけれど。何よりその可愛い見た目をしているのに、性別が男というところが一番の衝撃だっただろう。 「ノアなんて女の名前みてえ」 口の悪いクラスメイトの一人がそう揶揄うのだが、ノアはにっこりと愛らしい笑顔を見せた。 「イギリスではノアは男の名前なんだ。日本は違うんだね。日本には何度か来たことあるけど、住んだことはなかったんだ。色々分からないがあると思うから、教えて欲しいな」 嫌みにも真っ当から和やかに対応する。 まして間近で笑みを見せられては、とっさに反応が出来ない人が大半だった。性別関係なく、可愛いもの、美しいものは人の目や言葉を奪うのだと葵は十歳にして学ぶことになった。 そして何よりノアに対して呆気にとられたのが、その態度の違いだ。 ノアが冷たい態度を取るのは、どうやら葵に対してだけらしい。大人に対してだけでなく、クラスメイトに対してもノアは友好的だった。 何を訊かれても嫌な顔一つせず、親しげに接している。イギリス人とのハーフ、まして最近までイギリスに住んでいたということで、クラスメイトは口々に質問を投げかけていく。それは近くにいるだけでパンクしてしまいそうな数なのに、ノアは一つずつ丁寧に答えていた。 葵の質問にはろくに答えてくれない。それどころか一方的に怒鳴ってくるのに、ここにいるのは別人のようだった。 (猫被りっていうんだ!) 性格が悪いのにそれを隠して良い子ぶるのは、猫を被っているというのだと、母は教えてくれた。 まさかこんなにも人によってがらりと態度を変える子がいるなんて思わなかった。 どこか子どもらしくない子だと思ったけれど、葵の知っている大人たちより大人びているのではないだろうか。 だが激怒したノアを知らない人が見れば、ノアはきっと優しい子どもにしか見えないだろう。そんなところもずるい。 ノアは目立つ容姿と特別な生まれを上手に使って、クラスにすぐに馴染んだ。それどころか中心人物のように存在感を出しては、クラスメイトたちの注目を集めていた。 頭が良くて女子に優しい。イギリスは紳士の国だもんね、なんて女子に言われた時は口を開けて笑っていた。 顔が良くて女の子にウケが良いなんて、男子から煙たがれそうなものだが。男子に対してはざっくばらんな態度になっては、雨上がりの校庭で泥だらけになりながらサッカーをやって先生や女子たちに呆れられていた。 見た目は天使みたいだが、中身は自分たちとそんなに変わりがない。 そう分かると男子はノアに対しても身構えることなく遊びに誘うようになり、ノアも普通の小学生の集団に溶け込んだようだった。 ただし、葵に対しての態度は違う。 登校時は毎回ノアは二人だけになり。その時のノアは教室での態度が嘘のように冷たく、言葉遣いも乱暴だ。 (なんで俺だけ) 「ノアはどうして俺が嫌いなの?」 それは友達の家でマリカーをしている時だった。友達はトイレに行っており、葵とノアだけになってしまった。 どうせ友達がいれば「そんなことないよ」ときょとんとした顔で誤魔化されてしまうのだ。ノアには、そういう器用なことが出来る。 だから二人きりになったタイミングでそう尋ねた。 友達がいなくなった途端、それまであれこれ楽しそうに喋りながら操作していたのにノアは黙り込んでいたし、何よりふらふらとしていた運転がぴたりと安定してはあっという間に葵を追い抜かしていった。 もしかしてさっきまで手加減をしていたのか。対戦相手が友達の場合はわざと負けていた可能性もある。 そんなところまで計算しているのとぎょっとしたと同時に、自分にはそんな手加減を一切してくれないことに気が付いては気持ちが沈んだ。 人に嫌われるのは、やっぱり辛い。 「嫌いじゃない」 「嘘だ。だって俺にだけいつも冷たい」 「冷たくない。それが俺の素なんだよ。素直なだけ」 「素直!?こっちが本当ってこと?」 ゲームの最中だが思わずノアを見てしまった。ノアは画面を見たまま、つまらなそうに「そう」と返事をする。 (これが素直って……) 「じゃあ学校にいる時も、今も、嘘ついてるの?」 「嘘はあんまり付かない。良い子ちゃんを見せてるだけ」 「優等生を、えっと演じてるってこと?」 漫画で性格の悪い人が学校では親切な人のふりをしていることを「優等生を演じている」と言っていた。そのままを尋ねるとノアは唇の片方だけで笑った。 そんな笑い方をしている子どもは見たことがない。いや、大人でもテレビの中だけのものだった。 それを顔だけなら抜群に可愛いノアがするなんて、さすがにその表情は似合わなかった。 「言い得て妙だ。そんなところは頭が回るのか。もっと別のところも気が付いて欲しいけどな」 「なんで、怒ってるの?」 「怒ってない」 「嘘、だって俺にはいつも怒ってるじゃん」 「それはおまえが思い出さないからだ」 「だから、俺が何を忘れているっていうの」 丁度レースが終わった。ノアは一位を取っている。友達がいたならばはしゃいで喜んでいたのに、今は画面を見もしない。 葵をじっと見詰めている。明るい瞳はひんやりとしていた。 温度のないそれは忘れていること自体を責め立てているようだった。 ピンク色の唇がうっすらと開かれる。ようやく何か言ってくれる、そう思ったのに廊下をバタバタと派手に歩く音がする。友達が帰ってきたのだろう。 「ただいまー!」 元気良くドアを開けた友達に、ノアは「おかえり」と笑顔で答えていた。そこには学校で目にする優等生だけがいた。 友達が塾や習い事で放課後に一緒に遊べない曜日がある。 葵も同じ習い事をするかと友達や親に勧められたか、気が向かなくて未だにその曜日だけは一人で過ごしていた。 家でゲームをするのも、一人でどこかにふらりと出掛けるのも嫌いじゃない。 だが一人きりになると、自然と足が向かうところがあった。 「……なんでここにいるの?」 問いかけてから、おかしなことを言っているなと思った。それがどうしてなのかは分からないけれど、口にしてから妙な違和感があったからだ。 ノアは鳥居をくぐって参道をゆっくりと歩いてくる。そこに学校で見られるような優しげに微笑みはない。淡々とした態度と、つまらなそうな視線は機嫌が悪そうだ。 参道には昼下がりの陽光が明るく差し込んできている。ノアの栗色の髪が透き通っては、容貌を神秘的に飾っている。 ノアは黙ったまま社へと近付いてくる。正しくは社の斜め前に鎮座している記念碑に腰掛けている葵の元に来ているのだろう。 小さな神社の境内には他に人はいない。元々滅多に参拝者は来ず、神主も他の神社と掛け持ちしているような状態だ。 それでも縁者が毎朝神社の世話をしているので、境内は綺麗に整えられている。 「家に行くとおまえのお母さんがここにいるだろうと教えてくれた」 「そうなんだ」 葵は小さな頃から何故かこの神社に足を運ぶことが多かった。理由は自分でも分からない。 ここに来ると落ち着くからだ、人がいなくて気が楽だ、なんて気持ちもあるけれど。それが決定的な理由ではないような気がした。 「真新しい神社だ」 ノアが社を見ては大人びた口調でそう言う。 神社と言えば何十年も前に立てられて色褪せたもの、その分風格があり近寄りがたい雰囲気があるものだが。ここの神社はほんの数年前に建てられたばかりのものだ。 社だけではない、境内にある木々も若木ばかりだ。瑞々しく生命力溢れる木々は眩しいけれど、まるで公園のようだ。 親しみは湧くけれど、多くの神社が纏っているような、神聖な場所であり住宅地とは一線を画している特別な場所という空気を作り出すにはあまりにも幼い。 だがこの神社がつい最近出来たものではないということは、葵が腰を掛けている記念碑が作られた年号などで分かる。 「ここは十年前に焼けた神社なんだ。そこからまた新しく作ったから、新品みたいなんだって」 そう説明しながら、無駄だなと思った。 どうしてそう感じるのかも分からない。 ノアと一緒にいると、他の人と一緒にいる時には感じないものがたくさん生まれてくる。説明出来ないそれはすぐさま当たり前のように葵の中に広がっていく。 ノアは葵の説明を聞いているのかいないのか。開けた空を見上げている。雲一つない空は爽快感を覚えるようなものだろうに、眉を寄せて悩ましげだ。 「俺を生んでくれたお母さんは、ここでお父さんと出会ったんだって」 こんな話は誰にもしたことがない。 友達にするには重すぎる話題だと、小さな頃からなんとなく分かっていた。 両親も祖父母も、周囲の大人たちはみんな深刻そうな表情をするからだ。 子どもが受け止めるには難しいだろう。誰もがそんな様子だった。 自身のことである葵に難しいならば、無関係の友達ならまして困難であることは察しが付く。 頭ではなく、肌で理解してしまった。 だがノアは友達とは違う。 子どもらしさがない、大人たちよりもどこか大人びている。何よりずっと葵は何かを忘れていると怒っている。 だから葵が持っている、葵の情報を最初から伝えてみるしかなかった。 一体どこに何を忘れてきたのか。 ノアに訊けば良い。 空を見上げていたノアは視線を葵に戻した。何の表情も浮かんでいないその顔はいっそ作り物めいていた。 next |