春の終わりを待って  はじまり 2




 とろとろと全てが溶けていくようだった。お湯の中に全身が浸かり、丁度良いぬくもりに身体が輪郭を失って、意識もろともお湯の中に流れていく。
 心地良いばかりで、哀しいことも恐ろしいことも何もない。ここにいればあらゆるものが満たされている。
 時折キラキラと宝石の粉のような光が差し込んできては、嬉しそうな歌声が聞こえた。それに合わせて呼吸をする。
 息を吸い込み、吐き出す。
 すると体内にあるあたたかなものが、身の内側を巡っていく。指先から柔い熱が零れ出しては歌声が一層弾んだ。
(ああ、楽しいんだ)
 喜んでいる。
 そう分かると自分まで嬉しくなった。
 溶けきった身体でも歌声に合わせて踊りたい。そう願った途端だった。
 身体は引き裂かれた。



「……また」
 額に滲んでいた汗を無意識に手で拭う。
 何度も繰り返し見ている夢だ。最初はとても気持ちが良くてずっとそのままでいたいと思うのに、最後はいつだって意識ごと身体が引き裂かれて、闇の中にうち捨てられた。
 身体をバラバラにされた激痛と自分ではなくなってしまう恐ろしさ。気が狂うというのはまさにあんな風に、頭の中をぐちゃぐちゃにされて無残に潰されることなのだろうと思う。
 悲鳴を上げたくても出来なくて、のたうち回る身体に引っ張られるように目覚めた。
 起きるといつも汗をぐっしょりかいていて、気持ちが悪い。
 激痛の名残はどこにもないのに、どことなく四肢の先が痛む気がして動きたくなかった。
「葵、起きた?」
 母がノックもなく部屋に入ってくる。
 心配そうな母は、ベッドの上でぐったりとしている息子の額を撫でた。
「熱はないみたいね。またあの夢?」
「うん……」
 物心つく頃からずっと見ている夢に、葵はこれまで何度も目覚めて泣き出した。その度に母は頭を撫でて慰めてくれた。もう十歳にもなるから、素直に泣きながら母に抱き付くのは恥ずかしい。
 けれど頭を撫でてくれる手を止めては欲しくなかった。撫でて貰っている間に、恐ろしい目に遭ったという体感が消えていくからだ。
「学校どうする?休む?」
「行く」
 今日から新学期だ。
 新しい学年、新しいクラスになる大事な日に休むなんて勿体ない。
 がばりと起き上がると母がほっとしたようだった。
「無理しないのよ。昨日まで熱を出してたんだから。それだけ怖かったのね」
 ぽんぽんと頭を優しく撫でられて、三日前の出来事を思い出しては背中がぞくりとした。
 ノアから怒鳴られたあの時、近くにあったぼろアパートが突然倒壊した。しかも葵たちにのしかかるように斜めに倒れてきてはブロック塀を壊し、二人を押し潰そうとした、らしい。
 あくまでもらしいだ、葵の記憶はブロック塀が頭上に降り注いでくるイメージで止まっている。
 だが二人は無傷だった。
 ノアが葵の手を引っ張ってその場から逃げたので無事だったそうだ。
 葵は逃げるとすぐに気絶してしまったとノアは言っていたらしい。
 アパート倒壊に巻き込まれそうになった恐怖で、気を失ったのだろうと周囲の大人たちは口々に想像した。そして恐怖のあまり体調を崩して熱を出したのだと。
「最近は平和になったと思ってたのにね。またあんな危ないことが起こるなんて。昔みたいにならなきゃいいけど」
「……俺が生まれる前のあれ?」
 起き上がって服を着替える。その間に母は小学校に持っていく鞄の中身をチェックしているみたいだった。忘れ物がないと確かめているのだろう。
 いつもならこんなことはしてくれないけど、昨日まで寝込んでいたからだ。
「そう。葵が生まれる前には次々に物騒なことがあってね。神社が丸焼けになってからは、地盤沈下はあるし、雷が幾度か落ちて家や木が焼けるし、交通事故や行方不明も出てね。祟りじゃないかって騒ぎになったものよ」
「ふぅん」
 もう何度も聞いているその昔話には新鮮味がない。
 でもアパートが壊れて自分に倒れてきたことを思うと、祟りなんてものもあるのかも知れない。
「気を付けなさいよ」
「どうやって?」
「危なそうなところには近付かないようにね」
 そんなことを言われても、危なそうなところってどこだろう。
 首を傾げるのだが、母は「さあご飯ご飯」とキッチンへと葵を促した。
 それはバターがたっぷり塗られたトーストを囓りながら片手で牛乳が入ったグラスを取ったところだった。インターフォンが鳴っては誰かが来たことを知らせる。
 母がパタパタとスリッパを履いた足音を立てて玄関に向かっていく。友達とは通学路が違うので、葵を迎えに来るような子はいない。なので母を訪ねてきた人だろうと、気にもしていなかった。
 けれど満面の笑顔で帰ってきた母はとんでもないことを言った。
「葵、ノアちゃんが迎えに来てくれたわよ!」
「は?え?」
「ノアちゃんは今日が初めてなんだから。連れて行ってあげなさい」
 母はにこにこと上機嫌だが葵は血の気が引いた。
 あの女の子は母の前では大人しくて可愛い子だったが、二人きりになると途端に葵を一方的に怒鳴りつけてきた。しかも言っている内容は何一つ分からない、絶対に何かの勘違いだ。
 なのに言い返すことも出来なかった。ノアの憤りがすさまじかったからだ。
 殺されるかも知れないと思ったのは生まれて初めてだった。
「あの子が、来てるの?」
「そうよ。昨日も一昨日も葵に逢いに来てたわ。だけど熱で起き上がれなかったから、帰って貰ったの。心配してたわよ」
「あの子が?」
「優しい子よね」
「優しい?あの子が?」
「葵は大丈夫ですかって毎日やって来てたわ。一緒に瓦礫に巻き込まれるところだったから、特に気にしてたみたいね。本当に無事で良かったわ」
(あの子が俺を助けてくれた?むしろ)
 あのアパートを壊したのはまるでノアのようだった。怒鳴り声であの元々壊れかけていたアパートを、最後の一押しとばかりに倒したのではないか。
(超能力者とか)
 そんな人が本当にいるのだろうか。
 混乱していると、母に「早く食べなさい。ノアちゃんが待ってるわよ」と急かしてくる。
 出来ればノアには逢いたくない。また出会い頭に怒鳴りつけられたらどうすれば良いのか。
 しかしどれだけ遅らせようと思っても、トーストは囓っていく内に小さくなって、すぐになくなってしまう。食べ終わったと分かるやいなや食器は母によって回収されて、歯磨きを強いられては玄関に引っ張られて行く。
 ゆうに十分は待たされただろうノアは、玄関先で黙って立っていた。
 三日前とは違い、今日はデニムにグレーのパーカーだ。動きやすいように女の子らしい格好は避けたのかも知れない。
「おはよう」
 ノアは目が合うと少し微笑んだ。そうするとぱぁと周囲が明るくなるような気がするほど、可愛い。顔だけは本当に可愛くて、つい目が奪われる。
「何ぼーっとしてるの。まだ熱があるのか?」
「ないよ!お、はよう」
 見惚れていたなんて恥ずかしくて言えない。だが和やかに挨拶を返すのも、あの時の出来事を思い出しては抵抗があった。
 つっかえた挨拶に、ノアはくすりと笑った。それは子どもらしい顔だ、あの時とは違う。
(もしかしてあれは、夢?)
 そうかも知れない。でなければあんな風に怒られる理由がない。
「じゃあいってきます」
「いってらっしゃい、気を付けるのよ葵」
 ノアちゃんもね、と母は玄関先で手を振って見送ってくれる。それに手を振り返して、ノアと並んで歩き出す。
 ちらりと横目でノアを見るとすぐに目が合った。明るい色をした瞳は、葵を映し出すと細められた。
 それは笑いかけてくるような細め方ではない、明らかに睨み付けていた。
「え」
「それはこちらの台詞だ。まさかあおいっておまえの名前じゃないだろうな」
 棘がふんだんに付いた声音に、不機嫌を前面に押し出してきた表情。それはあの日葵を怒鳴った女の子は間違いなくノアだと教えていた。
 先ほどまでの花のように可愛らしい女の子はどこに行ったのか。母の前だから態度を変えていたのか。
「どうして」
「は?どうして?それはこっちが聞きたい。あおいなんて名前を付けられているなんて。よもや漢字は草冠に一文字の、あの葵じゃないだろうな」
 そうだと言えば頭からバリバリと噛み砕いてやる。
 そんな気迫があった。
 けれど哀しいかな葵の名前はノアが言う通りのものだ。ここで違うと言ってもノアが母に訊けば一発でバレる。それくらいは理解している。
 だから泣きたいような気持ちで頷いた。またあの時のように怒られるのだろうか。しかも名前が葵だというだけの理由だ。
(これまで葵って名前で怒った人なんていないのに!)
 この女の子は一体何なのか。
「よりによっておまえが葵!?ふざけた名前だ!侮辱している!誰がおまえにそんな名前を付けた!恥辱と呪いのような名前だ!」
「そ、育ててくれたお母さん!」
 もはやノアが怒鳴ってくる内容は難しい言葉ばかりで分からなかった。だが猛烈に腹を立てているのは肌ですら感じられてしまう。反射的に大声で言い返した。
 怖くて泣きたくなったけれど、ノアはぎりっと釣り上げていた瞳を多少緩めた。
「……あの女の人?」
「うん」
 母は葵を産んでくれた人ではない。それは近所では有名な話で、葵自身も小さな頃から知っていた。
 育ててくれた人、という言葉の意味をノアはすぐに気が付いたらしい。敏感な子だと思う。
「……そう」
 小さくそう呟くと不思議とノアはもう葵を睨み付けなかった。その代わり諦めたように首を振る。
 その横顔は酷く大人びていた。
 見た目の可愛さや幼さとは違う異質な表情はあまりにもちぐはぐだ。
「ノアちゃんは、どうして、そんなに怒ってるの?」
 葵にとっては至極真っ当な、当然出てくる疑問だ。けれどノアはそれを鼻で笑った。明らかに馬鹿にしている。
 しかもその馬鹿にした仕草が妙に似合っている。顔が可愛いとそんな様子すらも魅力の一つにしてしまうらしい。
「おまえが何もかも忘れているからだ。しかもそんな有様になり果てて、無様なものだ」
「なんで、そんな」
 尋ねただけなのに、やはり文句を言われる。
 まるで葵がここにいるだけで苛々すると言わんばかりだ。なのにわざわざ家まで迎えに来て、今から小学校に二人で向かっているのだから、訳が分からない。
「あと、おまえは勘違いしているみたいだから先に言っておくが」
「なに」
「俺は男だから」
 あっさりと告げられたその一言に、葵は初めてノアに対して「なんでだよ!」と怒鳴り返していた。



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