春の終わりを待って  はじまり 1




「初めまして」
 はにかみながらそう言ったのは天使のように可愛らしい女の子だった。
 栗色の髪に明るい色の瞳。身近にいる子たちどころか画面越しに目にしたどんな女の子よりも可愛いその子に、とっさに声が出なかった。
(シュークリームみたい)
 先ほど食べたばかりの、皮がふわふわで中にたっぷりのカスタードクリームと生クリームが詰まったシュークリームを思い出す。
 髪の色がそっくりな上に、丸い頬はシュークリームのように柔らかそうだ。 
 言葉を失っていると、母に「ほら、ちゃんと挨拶しなさい」と叱られた。
 とっさに頭を下げて、大人に対する挨拶と同じようにぎこちない口調で同じ台詞を返す。女の子は同い年だと聞いていたのに、とても自分と同じ年だとは思えなかった。
 じっと見詰めてくる瞳から視線が外せない。微かに潤んだその瞳に吸い込まれてしまいそうだ。
(可愛い!)
 見ているだけでドキドキしてしまい。今すぐ女の子に抱き付いて、逢いたかった!と全力で叫びたくなる。
 だがいくら相手が可愛いからといって、そんな風に抱き付いてはいけないことくらい、十歳にもなれば理解出来る。
 だがうずうずする身体を持て余していると、女の子が微笑みかけてくれた。
(あわわわ!どうしよう、笑ってくれた!)
 舞い上がっていく心と同調するように、身体が熱くなっていく。きっと顔は赤くなってしまっているだろう。
 それを女の子に見られるのは恥ずかしい、だが目がそらせない。そらしてはいけないと感じる。
「ねえ、ここには何があるのか教えて」
 女の子は鈴のような声でそう言っては、手を取った。思ったより強い力でぎゅっと握られて驚く。
「え」
「いいでしょう?」
 女の子は母親を見て、許可が出される前にさっさと歩き始めた。
「こら、ノア!そんな急に」
「あおい、ちゃんと案内してあげるのよ」
 女の子はノアという名前らしい。慌てる彼女の母親とは違い、葵の母は暢気に送り出してくれる。
 ノアは昨日、近所の洋館のような大きな家に引っ越してきた。いつも遠くから見上げるばかりだった、映画の中に出てくるような立派なあの屋敷はこれまでずっと無人だったのに。突然ノアの一家が引っ越してきたので、この辺りでは話題になっていた。
(まさか、引っ越してきた人も映画の登場人物みたいに可愛いなんて思わなかった)
 さらさらとした栗色の髪、白い肌、明るい瞳はノアがただの日本人ではないことを示していた。
 母親は美人だけれど、日本人のようだったので、きっとハーフなのだろう。
 そんな特別な部分も、ノアの可愛さを強めているようだった。
「あの、どこに行くの?」
 ノアは丈の短いワンピースを着ていた。下には厚手の黒いタイツを穿いているので下着が見える心配はないけれど。ひらひらとワンピースの裾が揺れるのに、無駄に心が乱される。
 春の盛りとばかりに満開の桜が植えられた道を突き進む。風はワンピースの裾を揺らめかせるだけでなく、桜の花びらを散らしていた。
 ノアの髪に花びらが絡み付く。まるで挨拶をしているみたいだ。
(ピンク色の光だ)
 桜色を溶かしたような小さな光の粒が舞っている。春の真昼は眩しいほど明るいけれど、ノアの周囲は更に輝いている。
 嬉々として春を歌う桜の中で、ノアの背中は浮かび上がっている。
「神社。まだあるんだろう?」
「場所を知ってるの?」
 引っ越してきたばかりだというのに、ノアはここから一番近い神社の場所を知っているようだった。迷いなく葵を引っ張っていく。
「どうして神社に行くの?あそこが見たいの?何かあるの?」
 小さな神社は真新しく、特別目立ったものはない。子どもたちの遊び場にするにも、がらんとしていて何も面白くない。
 他の神社ならばよくある大きな木々も、あそこには生えていないので虫取りなども出来ず、そこにあるだけの退屈な神社だった。
(俺は好きだけど)
 何もないのに、何故かあそこには引き寄せられるものがあった。なのでそこに行くのは珍しくないのだが、どうしてノアが目的にしているのか見当も付かない。
「何がある?」
 ノアは立ち止まり、振り返った。
 先ほどまでの可愛らしい笑顔は消え失せ、眦は釣り上がり激しい怒りを宿していた。一瞬にしてがらりと変わったノアの表情に、葵は硬直した。
 花びらたちの軽やかな歌声もぴたりと止まり、耳に痛いほどの静寂が空気を凍り付かせる。
 浮き足立つ高揚が恐怖へと切り替わった。
 ドキドキと早鐘を打っていた心臓が恐怖に震え始める。愛らしい少女が突然牙を剥き出しにした狼に変化したようだった。
「何がある!?何があるだと!?」
 怒声が響き渡る。
 周囲に人がいれば、こんなにも可愛らしい女の子の口から出てきたとは思えない迫力のある声にぎょっとしたことだろう。けれど昼下がりの閑散とした神社への小道には人気はない。
 二人のすぐ横にはもう何年も放置されている崩れかけのアパートがあるだけだ。薄気味悪いその建物には誰も住んでおらず、時代に取り残されたような薄汚れた不気味な建物は人通りを遠ざけてすらいた。
「おまえはまさか忘れたのか!己が何であるのか!ここが何なのか!おまえはその姿で生まれ落ちる前に全てを捨てたとでも言うつもりか!」
「お、おれ」
 何故ノアに責められているのか分からない。
 忘れたと言われてもノアとは初対面だ。こんな可愛い女の子に出逢っていたならば決して忘れない。そもそもノアは引っ越してきたばかりだ。母も初めましてと接していた。
 だからノアのことは何も知らないのが当然だ。
 なのにノアは猛烈に、怒っている。
「俺が何であるのか!おまえには分からないとでも言うのか!俺が!」
 ノアは次第に苦痛を浮かべ始めた。苦しくて苦しくて仕方がない、そう泣き出す寸前のようだった。
 その表情に、理不尽に怒鳴られているにも関わらず葵の胸は軋んでいく。
 そんな顔をしないで欲しい。そんなに苦しまないで欲しい。
 けれどノアを止める術が分からない。
 何を怒っているのかも分からないのだから。
「こんな醜悪な生き物に成り果ててまでおまえを探し求めて足掻いたというのに!おまえは俺を捨てて生きるというのか!そんなザマで!何も知らぬままで!」
 喉が張り裂けるのではないかと思うほどの声量だ。ビリビリと周囲の空気が震えているのが分かる。
 ノアの声に縛り付けられたように、葵は全く動けなくなっていた。冷たい汗だけが背中を伝っていく。息が止まりそうな恐ろしさと、訳も分からず泣き叫びたくなるような切なさが身の内から襲いかかってくる。
「これは裏切りだ」
 声量を落として、ノアは絞り出すように告げた。
 地を這うようなそれは、この世の全てを呪っているかのようだった。
 睨み付けてくるノアに何か言いたい。
 だが言葉が出てこない。恐ろしさに膝が笑ってしまい足元がふらつく。
 地面の下で何かが這いずり回っているかのように、重心がずれてはその場でたたらを踏んだ。ふらついたせいで意識までぐらぐらと不安定になっては、頭を振った。
(裏切り?)
 何を裏切ったというのか。
 出逢ったばかりの女の子の、何を。
 分からない。分からないのに、無性に何かを伝えたくなる。
 目の奥が熱くなっていく。涙が込み上げてきた。
 怖くて?それとも哀しくて?
 分からない。
「絶対に許さない!」
 刃を胸の奥、心臓に突き刺すような宣言と共にズズッと何か大きなものがずれる音がした。何かがうごめいている。
「なに」
 何が始まるのか。
 周囲を見渡そうとした葵を斜め上から聞こえてきた異様な音が制止した。
 ガラガラと積み重ねられた硬くて重いものが強引に動かされて、崩れていくような危険な音が鼓膜を震わせる。
 アパートの敷地を隔てていたブロック塀が崩れて倒れてきたのだと、理解する前に視界は暗闇に塞がれた。
 



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