寒さが和らいでいた。
 春になろうとしている。
 桜が咲き、風が柔らかく通り過ぎていく。
 しかし、地下に季節はない。
 空調で完全に調整されている室温。蛍光灯の下では時間も分からない。
 机に向かいながら、小さな手に色を塗っていた。
 白のような肌色、爪にはうっすらと淡いピンクを色づけする。
 両手をやり終えると、頭部や胴体、足などの部位と合わせて窯に入れる。
 一見アルミの四角い箱のようだが、中は高温で陶器などを焼けるようになっている。
 自動で焼成をかけて、ようやく背筋を伸ばしてのびをする。
 んー、と唸ると肩が凝っていることに気が付く。
 こうした疲労も、一息つかなければ分からないのだ。
 それくらい集中している。
 ふと部屋の中に視線を漂わせると、アンティークの椅子に座っている人形に目が止まった。
 白い肌。伏せられた瞳。長いまつげ。チャイナのような服に身を包んだ少女人形。
 緋旺。そう名を付けた人形が完成してから二ヶ月が過ぎていた。
 その名は、彼女が初めて口にした名前ではなかった。
 彼女が名乗った名に抵抗があったのだ。だから泉はそれを受け入れることを渋り、違う名前にしようと交渉した。
 彼女が名乗ったのは頭部に眼球をはめた時だ。そして泉が付けた名を、彼女が受け入れたのは完成した時。その間の十数日間、ずっと名前について話し合っていた。
 普段であれば、泉は人形が自ら名乗る名前に難を付けることはない。
 蜜那も彼女が名乗ったまま受け入れた。
 だが緋旺は、この少女は。
 自らを、彼岸と言ったのだ。
 似合いすぎていた。その響きはとても相応しいものだった。
 しかし同時に、あまりにも遠い場所を感じたのだ。
 生死よりも、遠いところを思わせた。だから泉は受け入れられなかった。
 人間と人形の、果ての違いを突きつけられているようだった。
 死というものは人間、生物らは与えられるが人形には与えられない。
 ではどこに行くのか。どうなっていくのか。
 そんな思いをそのまま抱いているように思えたのだ。
 泉の弱さでしかない思いを、彼女は結局受け入れた。
 緋色を真っ先に思わせるので、緋の付く名前にするとすんなりと飲んでくれた。
 だが焼き付いた彼岸のイメージは消えず、彼女を包むのは曼珠沙華の模様。
 これでいいのか。
 動き出すには少なくとも後一ヶ月はかかるであろう人形を見つめながら、自問する。
 人形を破壊する人形を作る。これでいいのか?
 繰り返しだ。同じことの繰り返しばかりを作り出し、いつか。
 いつか罪悪感も消えるのだろう。
 そして心を失う。人形が壊れても痛まなくなる。
 しかし心のない人間に、魂を宿す人形など作れはしないだろう。そうなれば泉は死んだも同然だ。
 人形を作ること以外能がないのだから。生き甲斐も、望みもない。
「…それなら…さ」
 どうせ死ぬのなら人形を壊すことなく、愛したまま死にたい。
 それなのに、一体何を。
「何をしている…」
 緋旺に近付けず、その場に立ち尽くした。
 彼女に触れるのは正直怖かった。
 触れれば情がわく。見ているだけで愛おしいような気持ちになるのだ。
 もし撫でれば、もう家族のように感じるだろう。
 それは、避けた方がいい。
 いっそ道具として見たほうがお互い傷付かずにすむだろう。
 そうすれば蜜那のように、壊れていく身体を見ながら微笑んだりしないだろう。
 魂が消えていくというのに、主のことなど心配せずともいいだろう。
 泉は息を吐いた。喉は少し震えている。
 もう見たくないのだ。
 幸せだと言いながら、崩壊していく愛おしい人形を。
 この手に抱きたくないのだ。
 あの破片など。
 だが泉の内側では、緋旺を大切にしたい、可愛がりたい、触れたい、という思いは日々膨らんでいた。
 それを抑えて、押し殺して、泣きたくなった。
 今も拳を握って、目をそらしている。
 瞳を繋げた。だがこの気持ちも繋げれば、分け合えば、後々苦しむのは、辛いのは、泉だけではない。
 間違いだろうか。
 これは、過ちなのだろうか。
 答えの出ない問い掛けに、くしゃりと髪を乱した。
 すると、不意に声が聞こえた。
 何かに籠もって、鈍く反響しているような声だ。
 小さな、少女のようなそれに目を見開く。
 どくり、と心臓が大きく脈を打った。
 そんなはずがない。
 心の中で否定すると、それを読んだかのようにもう一度声がした。
「泉」
 ぼわんと響くその声。
 だが何を言ったのか、はっきり伝わってくる。
 泉を呼んだのだ。
 視線をゆっくり人形に向ける。
 するときごちない動きで、伏せられていた瞳が泉を見た。
 とろりと甘い茶色の瞳。だがそこには星のように金が散らばり、黒い瞳孔の奥には。
 暮れゆく空のような緋色が秘められていた。
「…緋旺…」
 早すぎる覚醒だ。
 それに順番も異なっている。
 今までの人形はみな、目を開けるところから始まり、手を動かし、歩行をし始める。
 そして一通り自由に身体を動かせるようになり、あらゆる動作をなめらかに出来るようになってようやく喋るのだ。
 だが緋旺は、指一本動かすことなく、喋った。
 不鮮明ではあるが、異様な早さだ。
「何故、私に触れない」
 真っ直ぐな視線は強く、そして熱い。
 一度目を合わせると、逸らすことなど許されないことだった。
 咎められ泉は唇を開く。だが言葉は出てこなかった。
「貴方は酷い」
「…うん」
 頷くと同時に出た呟きは、からからに乾いている。
「ずっと頑なだ」
 無駄な言葉を省いた口調だ。
 性別も年も感じさせない。
「制作している時から私を怖がっていた。心を閉ざしていた」
「君が怖いんじゃない」
 失うことが怖いんだ。
 愛情がわくことが、壊れてしまうことが怖いのだ。
 だから近寄せないように、目を閉じていた。
「変わりがない」
 そんなことは同じだと、緋旺は告げた。
 距離を置かれていることはも、怯えられていることも事実なのだから、そういうのも無理はない。
「…ごめん…」
「私は貴方と繋がりたいと願った。だが貴方は私の意識を聞きながら、全てを受け入れようとはしなかった」
 そう、緋旺は泉を求めた。
 泉を通して世界知り、感じ、見ているのだ。
 それをより鮮明に、より強く、そして自分という存在をはっきりと認識するのには繋がるのが一番だった。
 安定する、強固になる。
 だが泉はそれを全て受け入れることはなかった。
 世界がどんなものであるのか伝えてくれるというのに、自分の感情は抑えたまま、ただひたすら淡々とするように勤めていた。
 何を思っているのか知りたいという、緋旺の願いには応えはしなかった。
「私がどれだけ寂しかったか。切なかったか。貴方が私を嫌っているなら理解も出来た」
 だが泉は一瞬たりとも、緋旺を厭うことはなかった。
 我が子のように慈しみたいという気持ちを、必死に抑えていたほどだ。
「優しい貴方の手で生まれ、唇を噛み自らを罵る様を見て、私が黙っているとでも?」
 苦みが込められている厳しい言葉だ。
「だから、こんなにも早く喋り始めたの?」
 動き出す段階を全て覆し、泉を叱咤するために無理を押してでも動き出したというのか。
 緋旺の瞳は、肯定を強く滲ませていた。
「一刻も早く貴方と話がしたかった」
 蛍光灯の下、緋旺の姿は人工的に見えるはずだ。
 それなのにとても生気に満ちている。人形だというのに、その身には命が溢れているようだ。
 それだけ意志が強いということなのだろう。
「私が壊れるのが恐ろしいか」
 単刀直入だ。その上、そんなことはもう嫌と言うほど知っているはずだ。
 苦笑いを浮かべて、泉は頷く。
「怖いよ」
「見くびるな」
 弱音はばっさりと斬り捨てられた。
 氷を斬るような鋭さに、泉は瞬きをする。
 凍えるような声音に怒りが露わにされている。
 これほど激しい感情を見せるような人形だとは思っていなかった。
 呆気にとられていると、緋旺はぎこちなく開いた双眸を僅かに細めた。
 睨むように。
「蜜那は情報が乏しいが故の結果だ。私はその蜜那の情報を、貴方を通して全て受け継いでいる。自壊の際、巻き込みを食らうことはもうない」
 その為の破壊方法もすでに検討済みだ。
 緋旺は怒りを見せながら、冷静に語り続ける。
「…それでも、他にどんな手段を使ってくるか分からない」
 自壊の際、ああいう方法で蜜那を破壊したように。
 捨て身になった者が一体どんな方法を使用してくるのか、泉の想像には限界がある。それを越えるものが出てくれば、同じ結果を招きかねない。
「だから黙って見ていると?」
 人形を制作したことを、緋旺を生み出したことを少なからず後悔している。そのことを指摘され、泉は目を伏せた。
 それでも、緋旺の視線を痛いほど感じる。
 このまま黙っていれば、何もせずにいれば、人形を破壊することにはならない。危険だと知りながら、それでもあの喪失を味わうくらいなら。そう迷ったことも見透かされている。
「人が…殺されていくのは苦しい。止めたいよ」
「人のことなどどうでもいい」
 緋旺は、人が殺されていくことへの罪悪感など知らないと、投げ捨てた。
「あれは私たちに対する侮辱だ。朝日奈の人形全てに対する嘲りだ。私はそれを甘んじている気はない」
 それは蜜那も言っていたことだ。
 人形に対する侮辱だ。それを見ているつもりはない、と。
 泉にも分かる感情だ。紅の模造など作り出されて、嘲笑を受けているような気分だ。灼熱の怒りは冷えることを知らず、今でも腹の奥、身体の芯を焦がしている。
「私たちが最も大切だと、かけがえがないと思っているものが何か。貴方は知っているはずだ」
「…誇り、だね」
 人形には命はない。だから生死にさして頓着しない。
 その代わり、人形は自分たちのプライドをとても大切にしている。
 肉体も、生命もない。だがそれを埋めるように、誇りが彼らの中に満ちている。
 高く、堅い矜持を崩そうとするもの、汚そうとするものを決して許さない。
「そう。愛玩であれば愛されること、操りであればその意のままに従うこと、身代わりであればその身をもって守ること」
 それぞれが人形たちの役目であり、プライドだ。
 彼らだけが持ち、彼らだけが理解する。特殊で、気高い誇りだ。
「そして私は、己が矜持で人形を破壊すること」
 同族の破壊。それは人間であるなら厭うものだ。
 自分に似れば似るほど、壊すことを躊躇う。
「…それで良いの」
 一点の迷いも、曇りもなく言う緋旺に泉だけが困惑していた。
「もう一度言う。私を見くびるな」
 静かだが有無を言わせない口調だ。
 それだけの自負があるのだろう。
 自分の手で生み出したというのに、その自信に泉は揺らぎそうになる。
 どこからこんな強さを持っていたのだろう。緋旺は。
「この身が壊れても私は構わない。だがそれ以前の問題だ。私は壊れない。壊せるとすれば紅くらいのものだろう。だが紅とやったところで劣る気はない」
 まして模造ごときに何が出来る。そう緋旺は吐き捨てた。
 それは泉とて深く理解している。
 だが蜜那もそう思い、作りだした人形だったのだ。
「それでも怖いと言うのなら、瞳を外せばいい」
 恐怖を拭えない主に、緋旺は仕方なしというように告げた。
 瞳を外しても、緋旺は模造を破壊するだろう。
 そう彼女が強く望んでいるからだ。
 止めることは誰にも出来ない。
 その矜持を折ることは、許されないのだ。
「出来ないよ…」
 泉は左目をそっと掌で押さえた。
 繋がっている、作り物の眼球。美しく、堅い、異物だ。
「何故」
「…君が破壊するというなら、僕も同じ思いを味わう」
 もし苦戦しているのならその苦しみを味わう。痛覚はなくとも、辛いと思ったのなら同じ辛さを感じる。
「失った時に、痛まない自分なんていらないんだ」
 それは近付くということだ。
 緋旺と強く繋がり、蜜那のように感覚を共有するということだ。自分の一部のように相手を感じることになる。
 いつかそれを失うかも知れないと思うと、怖い。痛い。二度とあんな思いはしたくない。
 だが、それでも、緋旺が模造の破壊を望むのなら。
 踏み出した足が止められないのなら。
 一人だけ安穏している気はない。
「恐がりのくせに」
 少しだけ、緋旺が笑った気配がした。
 声も和らぐ。
「それでも感じていたいんだよ」
 泉は左目を押さえていた手を外した。
 そこには、鋭い視線を笑みで溶かした緋旺がいた。
「泉」
「うん」
「抱き締めて」
 金がちらつく瞳が、僅かに潤んだ。
「貴方は一度として私を抱き締めてはくれなかった。人形が出来れば、その腕に抱き込んでくれる貴方が。私とは距離を置いたまま、その腕に包んでくれていない」
 瞳は繋がっているのに。貴方は私を受け入れてくれない。
 ああ…、と泉の口から吐息が零れた。
 蜜那を作りだした時のことを思い出す。
 嬉しくて、ぎゅっと抱き締めた。
 冷たく、堅い人形だ。しかし抱き締めると、とくりと有りもしない鼓動が聞こえた気がした。
 そして彼女が歩き出した時も、力一杯抱き締めてはすごいすごいと歓喜の声を上げた。
 喜んだ。嬉しかった。この上もなく。
 だが緋旺は、一度もこの腕に抱き締めていない。
 蜜那のことが引っかかり、怖くて触れずにいた。
 この腕をどんな思いで待っていたのだろう。
 満面の笑みすらろくに見せない主に、胸が潰れる思いだったのではないか。
 泉は震える気持ちを抱えて、緋旺の頬にそっと触れた。
 見た目はとても柔らかそうだというのに、肌は冷たく堅い。
 だが久しぶりに得た緋旺の感触に、堪えていたものが一気に溢れ出した。
 腕を回し、ほっそりとした身体を抱き締める。
 ひんやりとした身体に体温が奪われる。だがそうしてぬくもりが、思いが分け与えられているようで、涙が滲んだ。
 抱き締めたかった。
 こうして、腕の抱いて、生まれてきてありがとう。と言いたかった。
 出逢えて良かったと、囁きたかった。
 本当はずっと、ずっと願っていた。
「緋旺」
「はい」
 短い返事を聞くと、耐えきれずに大粒の雫が零れた。
 艶やかな黒髪に落ちては、するりと落ちていく。
「緋旺」
 嗚咽を滲ませる声。
 後悔している。迷っている。そんな気持ちが一瞬にして溶け消えた。
「はい」
 今は動くことが出来ない緋旺も、しばらくすれば泉を抱き締め返してくれる。
 そして模造を破壊するようになる。
 力を込めて、その身体を確かめた。
 嬉しいのか、悲しいのか、泣きたいのか、笑いたいのか、分からない。
 ただ涙が流れて止まらない。
 幸せだと感じる。同時に、ひどく苦しかった。



 


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