緋旺と模造との距離が五メートルほどになった時、ゆっくり歩いていた模造がアスファルトを蹴った。 関節の動きも、緋旺と比べると格段に滑らかだ。 まるで人間と同じ動きをしている。 今までは当たり前のように見てきたそれが、今日は酷く苛立たしく思える。 緋旺は動かなかった。 拳を構えて襲いかかってくる模造を、静かに迎えるようだった。 やはりこちらから動くことは出来ないようだ。 圧倒的に不利な状況なのだが、緋旺があまりに堂々としているせいか危機感は薄かった。 泉はすでに緋旺と意識を繋げているのか、食い入るように二人を見つめている。 真っ直ぐひねり込むように打たれた拳を緋旺は無造作に掴んだ。速さはないというのに、がっしりと捕らえたのだ。 掴んだ箇所は手首よりも腕に近く、そのまま表皮にひびを入れた。 (嘘だろ…) 緋旺は片手で、模造の腕を握りつぶした。 模造がどんな素材で作られているのかは分からない。だが今までの模造からして、片手で砕けるような素材ではないはずだ。 それをいとも易々と。 (スピードがない分、純粋に力で勝負するつもりなのか) それにしてもあれほどの力を持っていたのは、知らなかった。 泉を横目で見るが表情は変わらない。知っていたのか。 模造は痛みを感じている様子もなく、砕かれて緋旺の手に渡った自分の腕を見ようともしなかった。 まるで何事もなかったかのように、もう片方の拳で至近距離から襲いかかってくる。 ぎりぎり反応出来たようで、緋旺は寸でのところでかわす。だが頬に軽く擦り傷がついた。 血を流す身体ではないため、柔らかそうな皮膚に裂傷が付いただけだ。けれど補修を仕事としている恭一にとっては、模造にそんな痕を付けられるのは神経を逆撫でされる。 もうすでに顔立ちすら紅から遠のいてしまっている、出来の悪い模造ごときに。 (割り込んでやりたいくらいだ) だが恭一が入ったところで、邪魔になるのは目に見えていた。 拳から逃れた緋旺に、模造が蹴りを入れる。 さすがにこれには対応出来なかったらしい、脇腹にもろにくらい緋旺が身体を揺らした。 衝撃を受け膝を折ると、その頭部めがけて身体を回すようにして模造がもう一度蹴りを入れようとした。だが緋旺は二度目を許さなかった。 よろめいた身体を立て直し、一歩引いてそれを避ける。 この場合痛覚がないということは衝撃が後に引かず、次の動きにすぐ切り替えられる。 だがそれは模造も同じことだ。 片腕をもがれたというのに平然と攻撃を仕掛けてくる。 すぐ次の動きへと変えてくる模造に、緋旺は未だ握ったままだった手首を模造の顔めがけて投げ付けた。 それを払うために、一瞬模造に隙が出来る。 一瞬を見逃すはずもなく、緋旺はしなやかな脚をバネのように使って蹴りを繰り出す。 模造の腹に叩き込むと、身体が前のめりに曲がった。 かがみこんだ姿勢になると緋旺はさらに身体を捻り、回し蹴りで模造の左側の顔面を潰した。 かかとがめり込み、模造の頬が完全に陥没する。 左側の目にもひびが入った。 (やられたことは倍返し。って感じだな) 模造からくらったものを全て返している。それどころか自分が受けたダメージよりもさらに大きなものを与えているようだ。 表情一つ変えずに、優麗な顔立ちの少女がそれを行うと背筋が凍り付く。 人とは異なる存在だとは分かっているのだが、脅威にしか見えない。 (怒らせたくないな) 蜜那と違い、どこか冷めたところのある緋旺に軽口を叩くのは止めて置こう。恭一は心の中でそう固く誓った。 模造は足下をふらつかせる。 顔を半分潰された姿は醜悪だった。 それまでは他の人形と比べても、多少綺麗な容貌をしていたというのに。 (いや、だからか) 朝日奈の人形に比べれば劣る。だが他の人形に比べれば僅かに勝っているかも知れないその顔に、緋旺は苛立ちを覚えたのかも知れない。 薄っぺらい美しさなど、醜いだけだと感じてたのか。 体勢を立て直すより先に、緋旺に向かって手を伸ばしてくる。まるでつかみかかってくるようだ。 けれどその手をするりとかわして、緋旺は模造の首を掴んだ。 そのまま折るのかと思いきや、緋旺は首を掴んだまま、近くにフェンスに模造を叩きつけた。 自分より一回りは大きな人形を、簡単に宙へと飛ばしたのだ。 取り壊しを知らせる看板を張り付けたフェンスは、模造を受けとめガシャンと大きな音を立てる。 緋旺はフェンスに投げ付けた模造を冷ややかな目で眺めたかと思うと、左袖に手を入れた。 蜜那と同じだ。 裾の広がった形をしている袖の中から、刃の薄いナイフを取り出してくる。 服に取り付けられているのかと錯覚してしまいそうになる。 模造がふらりと立ち上がると同時に、緋旺は手首をきかせてナイフを投げた。 空気を切り、刃は模造の右目に突き刺さる。 恐らく貫通したことだろう。深々とそれが埋め込まれると模造は力無くずるずるとその場に座り込み。 倒れ込んだ。 両目を破壊すれば、模造は崩壊するようだ。 静寂が辺りを包む。 耳を澄ませても、自分の鼓動しか聞こえない。 本当にこれで終わったのか、もう動かないのか、模造をじっと眺めた。 初めに動いたのは、緋旺だった。 倒れ込んだ人形の顔の真横に立ち、何の感慨も顔に浮かべることになく、後頭部を踏み潰した。ぐしゃりと鈍い音がする。 泉と並んでその光景を見つめるが、何の変化もない。 「……やっぱり胴体に対して直接攻撃を与えないと駄目なのかな」 戦闘が終わり、泉が自分に意識を戻したらしい。 難しい顔で模造を睨み付けている。 「頭部を破壊することで完全に人形は崩壊したと思うんだけど」 「人形が崩壊したのに、発動しない仕掛けっていうのは無意味じゃありませんか?」 「だよね」 自爆などという仕掛けは、自分が死ぬのと引き替えに相手を確実に道連れにするものだ。自分が壊れたのに発動しない仕掛けなど無駄でしかない。 二人は緋旺に近付いてた。 模造の胴体とは距離を置き、以前のように肋骨のようなものを伸ばされても逃げられる位置に立っていた。 「…ここで胴体開けて見ようか?」 泉は模造の全身を観察した後、そう提案した。 「ここなら何かあっても壊される物はないし。うちだと家具とか壊されても嫌だしね」 暢気なことを言いながらも、泉の目は真剣だった。 作業場で人形を制作している時と似たものがある。 「破片を拾うのが面倒なだけか」 緋旺は淡々としたままそう言い、模造の肩を掴んで仰向けにした。 無惨に潰れた顔。間近で見ると面影は欠片もない。 右目に刺さっているナイフを引き抜くと、緋旺は二人と同じ場所まで下がった。 そしてそこから軽い手つきでナイフを放った。 胴体にさくりと抵抗無くナイフは刺さるが、周囲にひびが入っただけで何の変化もない。 「…仕掛けが働きませんね」 「人形の手で壊されないと動かないのかな」 「自爆する場合じゃないと発動しないってことですか?」 もしそうだとすると、どうも発動する確率があまり高くない仕掛けのように思える。 今のように遠方から攻撃を受けて、胴体が破壊される場合もあるということは視野に入れていないのだろうか。 まして頭部だけを破壊された場合は、胴体に仕込んでいて意味がない。 釈然としない思いだった。 「もっと大きく破壊してみようか。あれくらいの損傷ならまだ戦える」 緋旺はそう言ってしゃがみ込んだ。何をするのかと思っていると、アスファルトに拳を叩きつけた。 黒いアスファルトにひびが入り、拳より少し大きな固まりが取れた。 「力業だ…」 それは無茶苦茶だろう。と呆れる恭一に比べて、泉は「やりすぎー」と笑っている。 ここを工事する人間は何事かと驚くだろう。 ぼかりと一カ所だけアスファルトが破壊されているのだから。 「これなら壊せる」 身長は一五〇もない少女がアスファルトの固まりを持っているのは、何やら遠い目をしたくなる姿だ。 軽々とそれを模造の胴体に投げ付けると、胸を中心に胴体が二つに分かれた。 皮膚は粉々になり、散らばる。 だが、それでも何の反応もない。 これではただ人形を破壊しているだけだ。 「もしかして、何もない…?」 泉が模造に近寄っていく。緋旺も付きそうようにして後ろについた。 きっと泉より早く模造に近付きたいのだろう、と言うように賢明に歩いている。 だがまだ上手く動けない身体では泉に追いつくのが精一杯のようだ。 背後から作り手と人形を見ていると、そんな心境が見えてくる。 恭一も模造の傍らに立ち、露わになった胸部の中身を覗き込む。 「何も、ないですね」 中には文字が羅列してあった。何語かすら分からないような文字だ。それがみっしりと書かれている。一瞬耳なし芳一を思い出した。 だがそれだけで、中は空洞に近い。 人形の内部とさして違いがなかった。 「仕掛けがない」 泉はしゃがみ込んでは内部を調べている。ナイフを抜き、アスファルトの固まりを避けて胸から腹までを手で探っている。 それでも何の感触もないらしい。 「前の一度だけだったって、ことですかね?」 不可解だ。 何故あの時だけ、胸に仕掛けを組んだのか。 気紛れだったというのか。 「前の仕掛けで、いつも模造を壊していた奴は消したはずだ。だからもう仕掛けはいらない。そんなことでも思ったんでしょうか」 恭一は思いついた考えを口にする。 だが自分で言っていて、お粗末なものだという自覚はあった。 胴体を攻撃しなければならない仕掛けで、相手を確実に破壊出来るという確証はない。 そして例え模造を壊していた者を一度破壊したからといって、別の者が模造を破壊しに来るかも知れない。 その点も考えて、出来ればずっとあの仕掛けを入れておいたほうが優位だろう。 恭一なら、そうする。 手間がかかったとしても、自分の人形は壊されたというのに相手だけ生き延びている状態を作るよりましだ。 模造を作り出した者は、そうは考えなかったのだろうか。 「…分からないね」 泉はしゃがみ込んで残骸を見下ろしながら髪を掻き上げた。 金よりかは茶色に近くなった髪が乱れる。それは泉の心境そのものに見えた。 相手の考えていることが分からない。 これほど気味の悪いことはない。 「何がしたいんだ…」 一体。 欠片の一部を指で摘み、泉は溜息のように呟いた。 |