Blind fish


 溶けて、消えていく。
幻であったかのように。

 海の浅瀬を歩いている姿。
 ジーパンの裾を濡らし、白いシャツを着て水と戯れている少年。
「涼!」
 名前を呼ぶと彼は振り返った。正確には俺を見たのではなく声がした方向に顔を向けただけだった。
「伊織?」
「海に一人で行くなって行っただろ。貝とかで足の裏を切る」
 近寄って行くと涼は海から上がってきた。
「伊織は心配性なんだよ」
 涼は軽く笑った。
「お前を見てると心配にもなる!ほら、太陽にあまり当たると倒れるぞ」
 そう言って涼の手首をつかんだ。そうするといつもその細さに驚かされる。
「倒れないって」
 苦笑する涼に内心嘘をつけ。と思った。
 夏の暑さだけでも彼の身体にはきついはずだ。
 ろくに食事も摂れない、彼の身体には。
「帰るぞ」
 半ば強引に涼の手を引いた。

 涼は昔から海で泳ぐのが好きな子供だった。彼の父親がいつも海で泳いでいたからかもしれない。夏になると真っ黒に身体を焼いて楽しそうに駆け回っていた。
 そう、父親が彼の目の前で殺されるまでは。
 父親を殺したのは、涼の母親だった。母親は父親を殺した後涼にこう言ったそうだ。
『何も見てはいけないよ』
 それから涼は視力を急激に低下させた。
 今では色彩と物のおぼろげな輪郭だけしか理解できないらしい。
 その視界を彼は「薄い磨りガラス越しの世界」と表現した。
 曖昧な世界は涼から今まで生活と、体力を奪っていった。
 食事を摂る意識も無くし、消化器官は荒れ、荒れたが故に物もろくに食べられないという悪循環を繰り返す。睡眠は常に不規則で、体重は落ちた。
 緩慢な死への行進。
 それを止める為に俺の母、涼にとっては叔母は彼を引き取った。
 父と離婚した母は生活の為仕事に忙しく、大学にも行かずにフリーターをしている俺が涼の世話している。
 だが、世話と言っても俺は何もできずに、ただ涼が静かに壊れていく様を見ているだけしかなかった。

「涼…」
 夕日も沈み宵が始まったころ、涼の姿が見あたらないことに気が付いた。
 また海に行ったんだろうか。
 俺はいつも涼が海に行くたび、恐怖を覚える。
 彼の足は、真っ直ぐ海に向かっていくから。そのまま、二度と陸には上がらないと決めているように。
 不安が募り、急いで家の中を探し歩いた。そしてベランダの窓の前に涼が横たわっているのを発見した。
 寄って行き、涼の鼻へ手の甲を近づける。呼吸していることを確かめると一気に力が抜けた。
 苦しんでいる様子もない。大丈夫だろう。
 安心して、すとんと涼の隣に座った。
 淡い光の中にいる涼は神秘的で、同時に生きているように見えなかった。
 儚い生き物。すくい上げても零れてしまう、水のような存在。
 彼は、失っていく視力と生命力の代わりに何を得ているんだろう…。
 しばらく顔を見ていると、涼が静かに目を開けた。
「誰…?」
 こんな間近にいるのに、彼は顔の識別ができない。その事実にいつも痛みを覚える。
「伊織?」
「ああ」
「どうしたんだよ、こんな所に座り込んで」
「お前こそなんでこんな所で寝てるんだよ。探しただろ」
「ここだと、波音が聞こえるんだ」
 聞いていると、とても落ち着くんだよ。そう涼は言った。
「お前は、本当に海が好きなんだな」
「そうだね。海は落ち着くから」
「まるで魚だな」
「そうかもしれない」
 涼は軽く笑った。
「魚なら、海に帰るのか?」
 気まぐれで訊くと、涼は上半身を起こし、目を伏せた。
「還りたいよ。還りたい。だって、いつかは終わるから」
 いつかは必ず終わるんだから
 涼はそう言った。
 その言葉に鼓動が止まりそうになった。
 何も言えずに涼の身体を引き寄せた。腕に包んだ。
 細い身体、骨の感触ばかりが伝わってくる。けれど肺は規則的に膨らみとしぼみを繰り返し、呼吸していると分かる。心臓が血を押し出す振動が微かに伝わってくる。
 生きていると感じられる。
 なのにどうしてこんなにも怖いのだろう。
 今にも消えるんじゃないかと思うのだろう。
 
 終わらないよ。還らないでよ。ここに居てよ。
 そう言えない。
 言葉はあまりにも脆弱だから。
 海が、君を呼ぶから。



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