三千世界   参ノ十二




 何度果てたかも分からず、身体を嘖んでいた欲情を吐き出し終わると玻月は横になった。
 そのまま寝息を立て始めた子の傍らで、綜真は煙管を嗜んでいた。
 何気なく周囲を見ると襖の絵柄と良い、箪笥の装飾と良い、そして格子に刻まれた模様にも見覚えがある。
 綜真が来るとよく通される部屋だ。
 ここで女を取る場合もあり、取らぬ場合もあり、好きに過ごしていたものだが。己がどのような部屋にいるのかも気にせず事に及んだ事実に苦笑した。
 急き立てられていたのは玻月だけでなく、己もそうだったのかも知れない。
 煽られないようにと気を付けていたのに。どこまでそれが通用していたのだろうか。
 淡い橙色の灯りに照らされて、紫煙が昇っていく。
 こんな姿、やはり炯月には見せられない。
 二人してだらしなく着物を肌にかけているだけ。情事の後の気怠さが甘さを含んでは、離れがたいとばかりに玻月の頭はあぐらをかいた綜真の膝のごく近くだ。
 そして己はきっと寝入る際にはこの身体を腕の中に引き入れるのだろう。
 それまでは暖を取るためにしていたのだが、今夜からは意味合いが違う。
 肌寒さとは違う価値を求めて、それを抱き締めることになるのだ。
 まだ腹もくくれていないというのに。
(どうなることやら……)
 まだ引き返せるのではないかと玻月に訊きたい。けれどそんなことは里で繰り返した問答であり、玻月にとってみればここまで来て今更、というところだろう。
 四方八方を塞がれたような心持ちになっていると、部屋の前に誰かが立ち止まったのが分かる。
「入れよ」
 立ち止まったばかりの人が何か言う前に、綜真はそう促した。
 すると襖が静かに開かれて、妖艶な女が姿を現す。
 眠っていた玻月の耳がぴんっと立っては目を開ける。まどろみを消していくその瞳に、綜真は頭を撫でることで覚醒を止めた。
「寝てろ」
 警戒をせねばならない相手ではない。
 それを言うならこの遊郭は女の腹の中であり、恐れるのならばここに入る前からしていなければならぬことだ。
 綜真の手に撫でられて玻月は目を閉じる。何も身構えることはないのだと察したように、緊張を抜いては再び寝入るようだった。
 従順な態度だ。
 それに女は部屋に入ってきてはくふりと笑う。
「何が愉快だ」
 二人から少しばかり離れて煉絢は腰を下ろした。
 今宵の着物は深緑に紅で扇が描かれている。舞っているようなその扇の表面には獣たちが戯れている。
 煌びやかな物だが、それに見劣りすることない微笑みが浮かんでいる。
 煉絢が見せる笑みが作り物かそうではないのかは、その双眸が宿している色で分かる。
 所詮唇は作れても、瞳はなかなかに作りづらいものだ。ましてこの女は偽りを必要としていない。
「愉快でないはずもないわいな」
 からりと笑い、煉絢は玻月に目をやったようだった。
 四肢を丸めて幼子のように眠っている。それが淫らに嬌声を上げてたことを綜真だけは知っていた。
 しかし煉絢もまたそれを盗み見ようとしているかのような視線だ。
 どことなく煩わしくて、綜真は煙管の雁首を煙草箱に叩き付けては煉絢の意識をこちらに引き付けた。
「こうなることは分かっておった」
 綜真の小さなざわめきに勘付いたように、煉絢はまだ喉で笑う。
 こういう意地の悪い笑い方がよく似合う女というのはあまりいないのだ。煉絢はこれが最も美しく見えるのだから、性根が悪い。
「初めてこの子が来た時におぬしと共に寝ると聞いてな」
 玻月がここに来た次の日から、これを予感していたというのか。
 女の勘は鋭いと言うか先走った考えだと言うべきか。
 綜真は渋い顔をするしかなかった。
「そりゃ初めの方は術で寝かせて俺を警戒しないように仕向けてたからな」
 慣れてしまった。それだけのことだ。
 思うとあれは失敗だったのだろう。
 どう悔やんだところで過去のことは取り返しがつかない。そしてこうと決めた玻月も覆しはしないだろう。
「それだけで側にいることに安らぎを得るわけではありんせん」
 煉絢は何もかも知っているかのように語る。
「狼が警戒する生き物であることは知っておろう?」
「こいつは狼の自覚がねぇんだよ。だから俺なんかを選んだ」
 らしくないらしくない、そう誰もが言う。そして誰も玻月を狼扱いはしてこなかった。それが玻月の心境にも影響したのだろう。
 哀れなことだ。
「狼なら同族を選んだだろうに。親姉弟を泣かせやがって」
 そして玻月も家族を泣かせることに平然としている子でもなかった。
 別離の際に気まずそうに、そして辛そうにしていたのも綜真は見ている。
 誰もが納得して喜ぶような答えを玻月も欲しかっただろう。けれどそれを手に出来なかった。
「わっちはこの上なく狼らしいと思いんす」
 可哀想だと頭を撫でる綜真に対して、煉絢は全く違うことを述べる。
「何故」
「初めてここに来た時から、この子はおぬしを見ておった」
「それは俺しか頼る先がないからだろ」
 共に探してくれる相手、その上術師ということもあって玻月はついつい綜真を頼っていたのだろう。
「そして再びここに時、おぬしだと決めている目をしておった」
 煉絢は綜真の言うことを丸ごと聞き流し、そんなことを言いながら口にする。
(だから渋ったのか)
 玻月に雌を与えれば後はなんとかなるだろうと考えていた綜真と違い、煉絢はこうなることを視野に入れていたのだ。
「狼が唯一と決めればそれはこの世にたった一人。この子は里でもそれを通したのであろう?」
「ああ。可哀想なこった」
 もっと楽な、心地良い、祝福される道があっただろうに。玻月はそれを棄てたのだ。
 綜真にそれだけの魅力はないというのに。
「それをこの子に言うでない」
 煉絢は軽率だと嘖むように睨み付けてくる。
 どうも玻月に対しては可愛さを感じるらしい。
「だがな。俺は術師だから、こいつが探している術師と重なるんだろうよ。母親の代わりみたいな気持ちで懐いてきたんじゃねぇかと思ってる。それを発情期が来て、すり替えたんだ」
 微かに慕っていた思いが、つがいを求める思いに切り替わってしまった。
 誰にも、狼たちにも心寄せることが出来なかったから。懐いている数少ない先の綜真に懸想をすることしか出来なかったのだ。
(そうとしか思えねぇ)
「成獣一歩手前のところで出会った、しかも雄を母親と間違うなど。おぬしもとんちきなことを申すのじゃな」
「それなら男をつがいにしようとする方だっておかしいだろ」
 馬鹿にしたように言われて綜真はむっと言い返す。
 しかしきつい口調も気にせず、煉絢は妖艶な笑みを浮かべた。
「おかしくともおぬしだったのじゃろう」
 未だ腑に落ちない綜真を笑いながら、煉絢は上機嫌だ。
 困惑を面白がっているのだ。
 源のことであったとしてもこれほどの困惑は無かっただろう。まして他者のことが心配になって気もそぞろになるなど。
 以前の己なら失笑ものだ。
「おぬしが困っている様などそう見られるものではないわいな」
「恨むぞ」
 人の不幸を笑う者など趣味が悪い。元々決して好ましい性根の持ち主ではないと思っていたのだが。意地の悪さを己に向けられて嬉しいはずもない。
「好きにせよ。こちらは一向に相手にされずふて腐れた女がどれほどいることか」
 ここを遊郭と知っておるのか。綜真はこれまでに何度もそれを言われた。
 煉絢と会って話をして、面白そうな噂や事柄がないか訊く。そうすることがここに来る目的なのだ。
 女を抱くことが綜真のしたいことではない。
 なので誘われても腕を取られても、袖にすることが多々あった。
 それに関して遊女たちから不満が出ているのだろう。
 なんせ綜真は金払いがよく、手荒らなこともしないお得意様だ。馴染みになっておいて損はない。
「この子が仇討ちをしてくれたようなものじゃ」
 振り回される綜真の姿に女たちは溜飲を下ろすというのだろうか。
 人の色恋ほど面白く、また滑稽なものはない。女たちは特にそういう色めいたことに関して敏感だ。
「かような幼子、まして事のいろはも知らぬような子に取られたとあれば悔しがる女もおらぬ」
 張り合うのも馬鹿馬鹿しいような子どもが綜真を取ったとすれば、女たちは怒るどころか呆れるのだろう。
 もしかするとそういう趣味だったのかと思われるかも知れない。
(稚児趣味だの言われるのは我慢ならねぇんだが)
 言われるようなことをしているのだから、諦めなければならないのかも知れないが。直接言われれば一瞬で怒りにかられるだろう。
 どうやらこれは己にとっての逆鱗になるらしい。
「せいぜい藻掻くが良い」
 今からどのような苦境に立たされ、どのような苛烈な地に赴くというのか。煉絢の口からはそんな想像をさせるような言葉ばかり聞こえてくる。
「あの綜真が幼子にうろたえるなど、愉快じゃわいな」
 娯楽を見付けた傾城の女は猫のように目を細める。嗜虐的な瞳ではあるが棘はない。
 それ故に不快に感じることはなく、怒鳴りつける気持ちにもなれなかった。
 ただ綜真に出来たのは重い溜息をつきながら、この先己が行きだろう道に頭を悩ませるしかなかった。