飼い主とペット 3 「ただいま…」 僕は自分の家だと言うのに、そろりと玄関を開けては中を覗き込んだ。 すぐ正面に置いてあるリビングのゲージ。いつもならハンモックからテンが顔を出してくれるのだが今日は空だ。 「おかえり」 その代わり男がひょこっとリビングの隣にある部屋から顔を出した。 僕はそのことに溜息をつく。 「やっぱり寝ぼけてたわけじゃないんだ…」 今朝、テンが人間になってしまってからの騒動をちゃんと理解出来ないまま僕は仕事に行った。 パソコン画面を睨んでいる間に、現実ではあんなこと有り得ない。寝ぼけていたんだ、きっと帰ったらフェレットのテンが僕を迎えてくれる。なんてことを考えていた。 今思うとパニックになりそうだった自分を一時慰めていたんだろう。 「…君さ…あれだろ?僕が鹿野さんに部屋を探してもらってる時に来た人」 「ん、そう。今朝はそのこと言ってくれなかったから忘れたのかと思った。亮平御飯どうする?久しぶりに作ってみたいんだけど食う?亮平仕事から帰ってくると作るのめんどくさがっていつもレトルトとかじゃん。あれ良くないって」 「忘れてたわけじゃ…」 僕はキッチンに足を踏み入れた。手を洗いながらコンロにかけられた鍋を見る。何やらいいにおいがしてくる。トマトベースの煮物か何かだろう。 「ロールキャベツ作ったんたけど、って言っても作られているやつ買ってきて適当に煮込んだだけだけどなー。食う?あっためるけど。一ヶ月ぶりに人間になったからちょっと違和感あってさー、キッチン狭っ、包丁ちっちゃ!っておもしろかったんだぜ」 テンはぺらぺらとよく喋った。僕の倍は軽く返してくる。 テンションの高さがそういうところで出ているんだと思うと、妙にほっとしてしまった。 「フェレットの時は全然鳴かなかったのに、人になるとよく喋るんだな」 「ん?だって人間の時にあんなダンス踊って欲しい?フェレットなら機嫌がいいってことだけど、このカッコでやったらやばい奴じゃん。俺人間の時は落ち着いてんだ。代わりに口がよく動くけど」 テンはコンロを付けて鍋を温め始めた。 隣に立たれると一七〇pの僕よりも背が高い。一八五くらいだろうか。 「…その服、どうしたの?」 ずっとフェレットで生活していたはずのテンが、どうして自分にぴったりのサイズのセーターを着込んでいるんだろう。 「あー、これ上から運んできた」 「上?」 「俺この上にも部屋あってさ。自分の荷物とか全部そこに置いてんだよ。亮平が来る前はそこに住んでたし」 「あぁ…そうか。テンは人として生活してたんだ」 フェレットの姿だけで生きているものだとばかり勝手に思っていた。けどそれじゃ誰かに世話してもらわなきゃいけないってことだ。 「…僕以外にも飼い主がいたのか?」 「いないよ。そんなに多くの飼い主は持たないから、俺達」 「そうなんだ」 「ん。だって飼い主ってベットにとっては重要じゃん。ある意味全てって言うか。そんな人を何人も持てるわけないって。俺は亮平が初めての飼い主だし。豆吉も鹿野さんが一人目。ルディ、って大家の犬なんだけど、あの人は前の飼い主を事故で亡くしてるんだって。それからしばらくして大家に拾われた」 んで大家はルディのためにこのマンションを造ったってわけ。とテンは鍋の蓋を持ち上げて中身をかき混ぜた。 「あの人のために?」 「愛犬家なんだって。俺にしてみれば愛妻家って言いたいけど。それくらい大切にしてんだよ。鹿野さんだって豆吉のこといつも怒鳴ってるけど毎日ちゃんと帰ってきては抱き締めてるらしいよ?明実さんは挨拶と一緒に智恵ちゃんにキスするのが習慣だし」 「へー…」 みんなペットが可愛くて仕方ないんだなぁ。人のことはあんまり言えないけど。 「亮平だって仕事からすっげー疲れて帰ってきても、ちゃんと俺と遊んでくれるじゃん。猫じゃらしぶんぶん振り回してさ。俺が人間になれないただのフェレットだったら絶対ネズミって生き物を勘違いする動きだぜー、あれ。空中ぶっ飛んでるしな。ちっちゃい飛行機かっての。しかもイタチに向かって突進するってどんだけ喧嘩上等なネズミなんだって」 テンはけらけら笑う。 そんな風に思われていたっていうのはちょっとショックだ。 僕が買ってきた猫じゃらしは、釣り竿みたいなもので。プラスチックの棒から糸が垂れていて、その先には振るとからから音の鳴るネズミが付いている。 本物のネズミがちょろちょろ動く様子なんてテレビでしか見たことがないし、僕は手先がそんなに器用じゃないから再現なんて出来ない。 「そんなこと思いながら追いかけ回してたのか?」 「ううん。フェレットの時はフェレットの気持ちそのものだからさ。目の前でからからしてるから襲わなきゃって意識しかねぇの。人間の時とは全然違う視線と考え方で生きてる」 それは、そうだろうなぁ。と僕は納得した。人間のままの意識で、あんな狭いゲージの中で生活していたらきっとすごく辛いだろう。 「人間になりたいってぼんやりと思うことがあるってのは、他の生き物とは違うところだけど」 「人間になりたいって思うと、なるの?」 「なるよ。元々人間でいる時間のほうが長いし。だからさぁ、俺結構大変だったんだぜ、亮平は分からないだろーけど。会社に遅刻しそうになるのとか、カップラーメンに湯を入れてから八分も放置してる時とか、人間になって教えてやろうかって迷ってたし」 それならこの前掃除中にゴミ箱ひっくり返して凹んでた時にテンが僕の足下でくるくる回っていたのは本気で慰めてくれていたってことだろうか。 あの時は「自分のいいように解釈してるなぁ」って思ったんだけど。 「でもいきなり人間になったら亮平はびっくりして、俺のこと嫌いになったりしたら嫌だから我慢してた」 「でも、今日は人間になったじゃないか」 「うん。だって抱き締めて、なんて言われたらぎゅってしたくなるって!亮平は寝起きの自分がどんなのか知らないだろーけどそりゃすごいぞ!?生まれてまだ一週間しか経ってない子猫がみゃーみゃー鳴いてる感じ!」 テンはいきなりテンションを上げて語り始めた。 でもそのたとえはさっぱり分からない。誰が子猫なんだって? 「抱き締めずにいられるか!ってことで今日人間になることを決意した俺がここにいるわけ。結果的に間違ってなかったのでオールオッケー」 「何が間違ってなかったんだよ」 散々混乱して取り乱した上に、未だに半信半疑な僕は何もオーケーじゃない。 ちょっとむっとしてしまう。 「……亮平は、俺が嫌いになった?」 テンは僕の顔を見て、表情を曇らせる。思っていることをそのまま出す様子はやっぱりあのテンだなぁと思ってしまう。すぐに機嫌が分かる。 「俺と暮らしたくない?出ていって欲しい?…ずっとフェレットのままがいい?それとも……人間になるフェレットなんて気持ち悪い?」 次々と問い掛けてはテンは不安の色を色濃くして言った。 僕が不機嫌そうにしているのが怖いのだろうか。 「…そんなこと、ないけど」 僕は緩く首を振った。テンと一緒に生活したくない、なんて思わない。 人間になるって知っても気持ち悪いとは感じないし。 おかしい奴だとは思うけど。 「けど?」 テンは濁った語尾を取り上げた。 僕は何を続けようとしていたのか、自分でも分からなくて「けど…」と力無く繰り返した。 「君と…その…人間のテンとどう暮らしていいか分からない。フェレットとしての君しか知らないから。いきなり人間と二人暮らしですって言われても、今までの生活と変わってくるだろうし」 「変えるのが嫌ならフェレットでいるよ」 「人間でいた時間のほうが長いんだろ?本当はずっと人間になりたかったなら、無理にフェレットでいることなんてないよ」 僕は言ってから、まるで人間のままでいて欲しいみたいだ、と気が付いた。 (フェレットのままでいてくれたほうが面倒が少ないのに、どうしてだろ) 「ありがとう」 テンはにっこり、出会った頃と同じ笑顔を向けてくれた。 ああ、この顔が見たいからあんなこと言ったのかな。なんて考える。 不安そうにしているテンを見るのは嫌だ。楽しそうにして欲しい。だって僕の大切な子だから。 (子って年じゃないけど) 「人間でいたほうが色々楽だから、そう言ってもらえるとありがたい。二人暮らしって言っても今まで通りでいいって。俺は亮平の生活全部知ってるし、どうすればいいかも分かってる。朝なんかは人間でいると亮平が遅刻しないように世話だって焼ける」 「テンに世話焼かれるなんて嫌だ…」 確かに朝はばたばたしてて、危なっかしいかも知れないけど。 一から全部世話をしてきたテンに、自分の世話をされるなんて想像しただけでなんか嫌だ。不服というか、面子が立たないというか。 テン相手に今更かっこつけることなんかないんだろうけど。、飼い主の意地ってやつだ。 「えー、いいじゃん。俺ネクタイだってちゃんと結べるぜ?ワイシャツにアイロンだってかけられるし」 「そういう新妻みたいな発言するなよ」 「旦那様のお世話が新妻のお仕事です」 僕は「テン」と厳しい声を出した。 自分より格好いい男にそんなことを言われるのは複雑だった。 というか男に言われること自体複雑なんだけど。 「駄目?ずっと亮平を構いたかったのに。俺構われてばっかだからさ。人間になれることがバレた時には、亮平がそれを受け入れてくれた時には、絶対今までのお返しするんだって決めてたのに」 「まだ受け入れたわけじゃ…」 僕が戸惑いを見せると、途端にテンは口を閉ざしてすがるような目をする。 ペットって、こういう技を持っている生き物のことを言うんじゃないかって思うくらい、それは飼い主の心をがくがく揺らす。 「だって!今日初めて知ったんだって!」 それなのにすぐに受け入れろっていうのは酷じゃないか、と訴えるとテンはこれ見よがしに溜息をついた。 そして苦笑する。それは大人の微笑み方で、テンの容姿をぐっと引き立てた。 「うん。そりゃそうだな。無理ないよな」 「無理ないよ…」 「この後捨てられても…仕方ないんだろうな」 切なそうに、目を伏せながらテンが言う。 もう捨てられたみたいな言い方に、僕の心臓は締め付けられた。 テンと暮らすと決めた時、誓ったのは最後まで面倒を見るってことだった。 それなのに「捨てる」なんて…。 「捨てないよ…捨てるはずない」 「本当に?」 「初めて会った時に言っただろ?面倒みるって」 「うん。言ってくれた。惜しみなく愛情を注いでくれるってことも」 「そうだよ」 僕は覚えてくれていたことが嬉しかった。テンは小さな丸い瞳でじっと僕を見つめながら聞いていてくれていたんだ。 「今も、それは有効?」 「…うん」 僕は一瞬だけ迷って、でもはっきりと頷いた。 責任を持って、テンと暮らすって決めたから。そしてこの人は人間だけど、テンには違いないから。 「嬉しい、亮平、俺マジで嬉しい」 テンはぎゅっと僕に抱き付いた。 力が強くて、僕はぐぅと喉の奥で唸ってしまった。 でも「良かった」って耳の近くで聞こえた声があんまりにもほっとしていたから、文句も言わずそのままにしておいた。 テンも、人間になって見せたことがすごく不安だったんだろう。 捨てられないかって、僕がさっき帰宅するまできっと怖がってた。 (…ちゃんと同居出来るかな…) それはまだ分からないけど、でも暮らしてみる価値はある。 だって今までもそうしてきたんだから。 僕はそう思うと少し気持ちが落ち着いて、宥めるみたいにテンの背中をぽんぽんと叩いた。 するとテンが顔を上げて、ふわりと微笑む。 男である僕が見惚れるくらい、綺麗な笑みだった。 「え」 その唇は僕にキスを一つ落とす。 目を丸くしていると今度は頬に。 「て、テン…?」 僕の腰の回されていた手は、何やら不穏な動きを始める。スーツのパンツからシャツを抜き出してみたり、背中を撫でてみたり。 「何して…」 「ん?愛情表現」 テンはぺろっと僕の首を舐めた。 「愛情表現って今は人間だろ!?なんで舐めるんだよ!」 「人間だって舐めるだろ?愛情を伝えるのに」 「待って、それは!」 「大丈夫だって、俺これでも割と経験豊富だから」 「経験有りかよ!!」 フェレットと人間じゃ、愛情の伝え方は違う。テンがやっているのは男同士じゃやらないんだって教えようとしていた僕は撃沈した。 「痛くないようにするから。全部俺がやるし。亮平男の経験ある?」 「ないよ!あるわけないだろ!?」 「だよなー。うん、俺の目に狂いはなかった。初物食うときってどっち向いて笑うんだっけ?東だっけ?東ってどっちかな」 「知るか!!ってかそうじゃなくて!なんでいきなりこうなる!」 「駄目?場所変える?でもここのほうが良くない?ちゃんと潤滑油だってあるし。サラダ油だけど」 「場所の問題か!?こら、どこ触ってんだよ!」 シャツの中に忍び込んできた手は僕の脇腹を探るように動く。 ぞくり、と走ったものに僕はかぁと赤く染まった。 「なら、今度はオリーブオイルのエキストラヴァージン買ってくるって。そのときまでヴァージンのままにしておく自信ないけど」 「だからそういう問題でもない!第一なんで油なんだよ!」 「食べたいからに決まってんじゃん」 かぷっとテンは僕の鎖骨に歯を立てた。微かな痛みに混じった、甘さに僕は息を飲む。 「愛情頂戴?」 「…あ、愛情はあげるけど、身体まであげるって言った覚えはない!」 そんな僕の主張はテンの唇に塞がれる。 舌が入り込んできては、内側から僕を乱していく。 「っん…ぁ…」 吸い上げては絡みつくそれに、僕の身体が火照り始める。腰周りから力が抜けて、膝が落ちそうになった。 「責任もって飼ってくれよ。亮平」 耳元で囁かれた言葉に、僕はくらりと眩暈を感じた。 なんだこのペットは。 「この…馬鹿フェレット!」 馬鹿呼ばわりされたのに、テンは「はいはい」にこにこしながら僕の額にキスをした。 その後、情けないことに僕はペットに散々啼かされてしまった。 そしてテンの希望通り、次の日は世話を焼かれる側に回る羽目となった。 |